「ザリガニが鳴くところ」ー捕食者を前にしたときの、2つの選択肢ーネタバレ感想

サスペンス

私は「ザリガニが鳴くところ」に関しては原作の方から入りました…というより、入ろうとしました。Audibleの無料体験期間中に聞いていたのですが、正直ストーリー序盤の子供時代の主人公が親に捨てられ、街の人たちから差別を受けて、というくだりが可哀そうで聞いていてしんどかったです。

何となく心が元気なときじゃないと聞けないな…と敬遠して、モーパッサンの軽い短編小説なんかを聞くようになり、そしてあっという間に無料期間が終了。素晴らしい小説だとは思っていたので「最後まで聞いておけばよかったなぁ」と後悔したところで、映画のほうがアマプラ入りしているのを発見しました。

映画は、原作のように可哀そうな主人公の生い立ちを事細かに描くことはなかったので、大分サラッと観やすかったですね。法廷のシーンとか結末の描き方が原作でどうなっていたかは分かりませんが、映画はシンプルなストーリー展開で、その分ラストの大切なメッセージが深い余韻を残す作りになっていました。

何が正義で何が悪かが明確でなく、一人ひとりの生き方が問われる今の時代にこそ観たい映画です。

それでは、今回も一番大切な部分をしっかりネタバレしつつ感想を書いていきます。

鑑賞のまえに

2022年製作/アメリカ

時間:125分

監督:オリビア・ニューマン

出演:デイジー・エドガー・ジョーンズ、テイラー・ジョン・スミスなど

・原作はリアル、映画はマイルド(多分)。原作読むのが辛いという人にもおすすめ

・ある意味「君たちはどう生きるか」をめっちゃ突き付けてくる作品

・湿地帯の映像がキレイすぎて、それだけでも鑑賞してよかったと思えます

あらすじ

1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で、裕福な家庭で育ち将来を期待されていた青年チェイスの死体が発見される。容疑をかけられたのは、湿地帯でたった一人で暮らす女性・カイア。彼女は幼いときに両親や兄弟に見捨てられ、学校にも通わず、湿地の自然から生きる術を学んで生き抜いてきた。

そんな彼女の世界に一人の心優しい青年が現れる。青年テイトとの出会いをきっかけに、カイアは読み書きや本の楽しさを知り、長い年月自然を観察してきた記録をまとめて出版するまでになる。しかし、彼女を応援してくれていたテイトは、大学進学を機にカイアのもとを去っていく。

カイアはその後、地元の人気者チェイスと交際するが、彼はカイアに婚約者がいることを隠していた。騙されていたことを知ったカイアはチェイスから離れようとするが、チェイスは逆上しカイアに暴力をふるうようになり…

感想

この映画では、力の弱い女性や子どもたちが、男たちの暴力にさらされる様子が描かれています。この映画のテーマを思いっきり単純化してしまうと、そのような状況で力の弱い者はどのような選択をすべきなのかということだと思います。

まず最初に、主人公カイアの母親が選んだ道は“とにかく安全なところへ逃げて自分の身を守る”でした。

カイアの母親はまだカイアが幼いうちに子ども達を置いて家を出ますが、その原因は夫によるDVでした。カイアの父親はアルコールに溺れ、家族に対して日常的に暴力をふるっていたのです。小さなカイアはなぜ母親が去っていったのかが理解できず、心に深い傷を負うことになります

さらに母親が去ったあとも父親の凶暴性はおさまることがなく、耐えきれなくなった兄弟たちが次々とカイアを置いて家を出ていきました。

ごく普通の家庭で育った場合には、小さな子どもを一人だけ置き去りにして家を出て行くというのは理解できないでしょう。しかし、カイア達の住んでいる家の周囲は見渡すかぎり湿地が広がり、人間の社会からほとんど切り離されたような場所です。大部分が湿地に吞み込まれていて、自然の一部と化しているような場所。そのような場所では、一般的な人間社会の法律や道徳は無力なのです。

…と、ちょっと大げさに書いてみましたが、実際にはこのような状況は何もカイアたちの住む湿地帯に限ったことではありません。私たちの身の周りでもごく普通に起こっています。映画「誰も知らない」は実際の事件を基にした作品ですが、あれほど特殊な状況でなくとも、非力な子どもへの暴力・育児放棄はここ日本においても日常茶飯事です。

人間は服を着てても動物だし、むしろ動物のように振舞うほうが自然な姿ともいえます。力が関係性を決め、基本的に力の強い者は弱い者の気持ちなんて考慮しません。法の執行者でもソーシャルワーカーでも、誰かが介入しない限り、弱い者は狭い世界の中でどこまでも虐げられることになるのです。

漫画「MASTERキートン」の中で、動物学者である主人公の父親が横浜の裏街で暮らしていた当時を思い出し「ああいう社会を見ていると動物界と同じだ」と呟くシーンがありますが、彼もカイアのような子ども達を大勢見てきたのでしょう。

カイアの母親と兄弟達は父親から殴られ、縄張り争いに負けた動物のように家から逃げ出していきました。カイアと一番年の近かった兄は、最後まで幼い妹のことを気にかけていて「危ないときにはザリガニの鳴くところまで逃げろ」という言葉を残していきます。しかしカイアが父親に怯えて暮らす日はそう長くは続きませんでした。湿地での暮らしに嫌気がさしたのか、やがて父親自身も姿を消してしまい、カイアはそれ以後一人で湿地の家で生きていくことになります。

やがて美しく成長したカイアは、2人の男性との恋愛を経験することになります。最初に出会ったテイトは優しいけれど、どこか弱さを抱えた人間です。自然と共に生きるカイアに惹かれつつも彼女と人生を共にする勇気がなく、一度カイアを手ひどく裏切ることになります。この頃まだカイアは純真無垢で、テイトに完全に心を開いていたために、彼からの裏切りに深く傷つきました。

そして次に出会ったのがチェイス。カイアは過去にテイトに裏切られた経験があったため、チェイスに対しては完全に警戒心を解くことなく接しています。実際チェイスは金持ちで見た目も良い町の人気者ですが、カイアのことを“湿地の娘”として内心では軽んじていることが言葉の端々から伝わってきます。さらにカイアに結婚をほのめかしていたチェイスにはすでに婚約者がいて、カイアと一緒になる気などさらさら無かったことが発覚します。それを知ってチェイスから離れていったカイアに対し、チェイスは逆上し暴力を振るうようになりました。

映画はこのチェイスが、湿地の高見櫓から転落した死体として発見されるシーンから始まります。そしてチェイスと関係を持ち、一般社会から外れた存在であったカイアに町中の疑いの目が向けられ、彼女の弁護士が街の人々の差別意識と闘いながら、裁判でカイアの潔白を訴えるという、一応は法廷サスペンスものなのです。

弁護士の必死の訴えの甲斐あって、カイアは最後に無罪判決を受けます。晴れて自由の身となった彼女は、一度は自分の元から去ったテイトの謝罪も受け入れ、その後ずっと2人は湿地の家で共に暮らしました。カイアは心穏やかに晩年を過ごし、最期には豊かな湿地の自然に包まれるようにして亡くなりました。

ここまでで上映開始から2時間が過ぎ、映画もほとんど終わりになります。カイアが女性としての幸せを掴むまでを描いた一般的なラブストーリーであれば、無罪になってテイトと一緒になれてめでたしめでたしで終わるところでしょう。しかし、この映画の真のテーマはここからのラスト5分に込められていました。

カイアの遺した自然観察のノートを読んでいたテイトは、とあるページにチェイスが死亡時に身に着けていた貝殻のネックレスが隠されているのを発見します。それこそがカイアがチェイスの死んだ夜に彼と会っていて、恐らくは彼を高見櫓に誘い出して殺害したという証拠の品でした。

テイトは数十年間彼女の潔白を信じ、疑いもしなかったのでしょう。しかし実際にはカイアは用意周到にチェイスの殺害計画を立て、冷徹にそれを実行していました。その事実によって、テイトは死ぬまで一緒に暮らしてきたカイアという女性について、自分は本当は何も理解していなかったことを知るのです。

多分、テイトにはどれだけ考えても一生理解できなかったでしょう。彼はあくまでも湿地の外側から自然を観察する人間です。生き物たちの習性をよく知っていても、彼らの世界と人間社会に属する自分との間に、踏み越えられない線を引いています。

一方のカイアは、人間社会から外れ、湿地の自然界に属する人間です。親や兄弟は自分を見捨てて去っていき、町の人間からは蔑まれて、学校で同年代の子と学ぶことも叶いませんでした。カイアに生きるための知恵を与えてくれたのは、法やモラルを重んじる人間たちではなく、善悪を超えてひたすら命をつなぐことに懸命な生き物たちの姿なのです。

生き物は捕食者に捕まらないように必死に逃げ延びようとします。これが夫の暴力から逃れた、カイアの母親の選んだ道です。カイアはチェイスに暴力を振るわれるようになったとき、なぜ母親が逃げたのかを理解したと言っていました。しかし、自然界を深く観察していたカイアは、捕食者である男からただ逃げ回る以外の選択肢を知っていたのです。

カイアが殺人の証拠を隠していたノートの前のページには、雄雌のカマキリのスケッチとそれに添えて短い文章が書かれていました。映画では一瞬しか映らないページですが、それは“カマキリの雌はより強い子孫を残すために雄を食べる”という、虫の習性に関するメモだったのです。

カイアは暴力をふるう男たちから逃げ隠れせず生きていくためには、自身が捕食者となって雄を喰らうしかないと知っていました。自然界には善悪などなく、そこに存在するのはそれぞれが生き延びるための必然だけです。カイアはその自然界の掟に従って、カマキリの雌のようにチェイスをおびきだし、そして殺害することで生き延びたのです。

私が印象的だったのは、カイアが最期のまどろみの中でずっと待ち焦がれていた母親と再会するシーンです。夕闇の湿地で船に乗るカイアは母親と別れたときの幼い少女に戻っていました。母の姿を見つけて嬉しそうに手を振るカイア。その表情には罪を犯したことへの疚しさはなく、むしろ母親と再会できるときまでしっかりと生き延びてきたことを母に誉めてほしいという無邪気さが感じられました。

カイアは母があのようにするしかなかったことを理解しています。しかし、彼女は同じ状況で母よりも強く、賢く生き延びることができました。人間社会の一員であればそれを罪と捉えて恥じるでしょう。しかしカイアは湿地の生物として、そのことを何よりも誇らしく感じていたはずです。

カイアのことを一見理解しているように見える人間たちは、カイアを優秀な自然の観察者と考えていました。しかしテイトがそうであったように、彼らも実際にはカイアのことをほとんど分かってはいなかったのでしょう。

カイアは湿地の自然を観察対象として見ていたわけではなく、鳥や虫たちと同じように、ただ生きるためにそこで必要なことを学んでいたのです。そしてカイアがじっと観察していたのは、むしろ人間の社会のほうだったのではないでしょうか。どうすれば確実にチェイスを仕留めることができ、どうすればその後無罪を勝ち取ることができるのか。カイアはじっと人間社会を外側から眺め、周到な計画を練っていたように思えます。

確かに彼女は優秀な観察者で、人間社会で重罪とされる殺人を犯しながら無事逃げ延び、そしてパートナーのテイトのことも自分が死ぬときまで欺くことに成功しました。ただし彼女はあくまでも観察者で、人間の社会はアウェイ。そのことが、法廷での彼女の自信無さげな態度に表れている気もします。

自然界では生き延びるために当たり前とされる行為に対して、人間が善悪の観点から過剰反応する理由を最後まで理解できなかったのかもしれません。ある意味でカマキリの雌が雄を食うと聞いて引いていた老紳士の反応に似通っています。

この映画では、湿地で半分野生のような生き方をしているはずのカイアが、髪も肌もエステにでも通っているかのように綺麗で、服装や家も清潔すぎることへの違和感が目につきます。映画だから…とか、ヒロインを魅力的に見せるため…とか、理由は色々挙げられるのですが、私はこのカイアのビジュアルが良いミスリードになっているなと感じました。

私達観客も、無意識のうちに作中の街の人々のような差別意識を抱えています。いかにもな感じの小汚い外見だった場合、どこかで“私達とは違う種類の人間”という意識を持ってしまうでしょう。身綺麗で街中ですれ違ってもおかしくないような見た目だからこそ、カイアを“自分たちの側の人間”と判断して、感情移入できるのです。そして私達のそんな勝手な仲間意識は、映画のラストで見事に打ち砕かれることになります。

ちなみにタイトルの「ザリガニが鳴くところ」というのは、母や兄が口にしていた“危なくなったときに逃げ込める安全地帯”という意味なのですが、実際にはザリガニは鳴きません。何となく俳句の季語“蚯蚓(ミミズ)鳴く”を思い出させる言葉です。“蚯蚓鳴く”という言葉が生まれた当時は他の生き物の鳴き声をミミズのものと勘違いしていたようですが、現在では実際にはあり得ない生き物の鳴き声ということで、どことなく非現実的なふわふわとしたニュアンスを感じる季語になっています。

繰り返し言いますが、ミミズと同じくザリガニは鳴きません。つまりこの世界にザリガニが鳴くところなんて存在しないんです。母や兄はそのことを知らず、ミミズの鳴き声のように他の生き物の声を混同していたのかもしれません。そしてこの世界に捕食者から身を隠せる安全な場所があると信じて逃げ出していきました。しかし自然の中で生きるカイアは、ザリガニが鳴くところなんて実在しないと知っていました。それは弱いものが抱く、無力な夢に過ぎません。捕食者から身を守るには自身が強くなるしかないのです。

光あふれる湿地の風景の中で、カイアはたとえ罪を犯しても、どこまでも美しく純粋な存在でした。自然の掟に従い、その一部として生きる。カイアの内にある普遍的なものに惹かれます。

現代的なキャリア女性とか、アクション映画の女エージェントとかのステレオタイプなキャラクターに飽き飽きしたら、カイアの美しさに触れるためにまたこの映画を観ようと思います。主演の女優さんもキャラクターにマッチしていて本当に綺麗ですしね!

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

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