「ジョーンについて」ー自分の人生を客観的に見つめることはこんなにも難しいーネタバレ感想

ドラマ

ポスター画像がとってもアーティスティックでおしゃれですよね。

最近どの映画を観ても映像がキレイで、本当にうっとりします。

さらにこの映画は主演のイザベル・ユペールも美しい。公開当時はもう70歳手前という年齢だったはずですが…綺麗すぎるでしょ。さすがはバレンシアガのアンバサダー。

ともすれば中年女の惨めさすら漂ってしまいそうなキャラクターを、見事に品格と尊厳を保ちつつ演じきってくれました。

今回も一番大事な部分のネタバレなしには感想が書けない作品ですね。未鑑賞の方はご注意ください。

鑑賞のまえに

2022年製作/フランス、ドイツ、アイルランド

時間:101分

監督:ローラン・ラリヴィエール

出演:イザベル・ユペール、フレイア・メイヴァーなど

・雨の日の午後に静かに鑑賞したい、女の人生を描いたヒューマンドラマ

・日本人としてちょっと不快に感じる要素も(というより生理的に気持ち悪いよ…)

・100分ほどの短い時間に主人公の過去と現在のシーンが入り組んで描かれるので、しっかり見ていないとついていけないかも。流し見注意。

あらすじ

出版社を経営し、シングルマザーとして自分一人で息子を育て上げた、自立した女性ジョーン。そんな彼女の前に、青春時代の大恋愛の相手が偶然あらわれます。パリには自分の娘に会いにやってきたという彼に、ジョーンは彼の子どもを産んで一人で育てていたということを告げることができませんでした。

この再会に心動かされたジョーンは、自身の人生を振り返るようになります。盗みを働きながら恋人と過ごしたアイルランド時代。家族の崩壊や息子との関係、そしてパートナーである作家ティムとの思い出。波乱に満ちながらも充実した人生を送ってきたように見えるジョーンですが、実は彼女は誰にも言えないある過去を抱えて生きていました…

感想

中年の女性がふとしたきっかけから自身の人生を冷静に見つめ直し、今まで目をそむけていた事実を直視することになる。

これはもう完全にアガサ・クリスティの「春にして君を離れ」のフランス版です。主人公の名前も同じ。ラストの結末もまったく同じ。今回も「ああ、ジョーン!結局君は何も変わらないのか」ってなります。

大好きな小説に似た作品に出会うことができて、私は純粋に嬉しかったですね。「春にして…」を初めて読んだときの感動が胸に蘇ってきました。アガサ・クリスティは探偵ものも読みましたが、この長編小説が断然好き。クリスティって本当に人間の心をよく知っていたんだなと思います。

さて映画に話を戻しましょう。バリバリの専業主婦だった「春にして…」の主人公とは違い、こちらのジョーンは社会的な成功を得たキャリア女性です。自身で出版社を経営し、会社の看板である作家とは公私ともにパートナーという、現代女性の憧れのような生活を送っています。しかしジョーンは昔からエリート街道を突き進んできたわけではなく、実は若い頃にはスリの常習犯の男性と恋をし、自身も盗みを手助けするようになって逮捕されたという過去を持っています。

逮捕された当時ジョーンは妊娠しており、先に釈放されたために恋人と離れ離れの状態で出産することになりました。そして産後落ち着いてから釈放された恋人に会いにいくと…そこにはすでに他の女性と新しい家庭を築いていた彼の姿があったのです。映画はこの恋人と数十年ぶりに再会した彼女が、感傷的な気持ちで自身の人生を振り返っていく…という構成になっています。

すっかり老け込んで、かつての魅力の欠片も残っていない。そんな元恋人でも、やっぱり青春時代の大恋愛の相手というのは特別な存在なんでしょうか?元恋人とカフェでお茶をしながら、お腹も出てすっかりおじいちゃんになっている相手の顔にかつての美青年をオーバーラップさせてジョーンがときめく様子は微笑ましく感じます。

彼に「子供はいるの?」と聞かれ、微かに動揺するジョーン。「息子が一人。とてもいい子よ」と言葉少なに答えますが、すぐに「熱烈に愛した男性との子供なの」と付け加えるシーンは、これだけでちょっと泣けそうです。元恋人とカフェで別れた後も、この偶然の再会によって波の立ったジョーンの心は静まらず、息子との思い出を順を追うように振り返っていきます。難しい思春期の少年時代、自立して精神的にも安定した青年時代。どんなときにも母と息子の心は寄り添い、互いに思いやりのある理想的な親子関係を築いてきたように見えます。…“理想的すぎる”といえるほどの関係を

映画の終盤になり、元恋人と再会した当時、カフェでジョーンが息子のことをほとんど語らなかった本当の理由が明らかになります。息子との回想シーンのなかで、まだ若い母親だったジョーンがプールサイドでうたた寝をしていて、プールで遊んでいた息子が水に落ちたと思われるような描写がありました。そこではその後の展開は描かれなかったのですが、実は息子のナタンはこのときプールで溺れてそのまま命を落としていたのです。

つまり、映画全編を通して登場していた少年期・青年期のナタンは、ジョーンの空想の産物でした。ジョーンは少年のナタンが自分の日記をめくりながら「眠り込んだ日があっただろ。夏だった、8月だ」というのを聞いて険しい表情を見せます。そして日記の問題のページに目を通し、何かを問うようにじっとジョーンを見るナタン。「どうして眠り込んだの?うっかりしてた?」というナタンの問いかけに、弾かれたように席を立つジョーン。「この話は禁止よ」。

ジョーンは自分の過失で息子を死なせてしまったというショックから立ち直るため、その記憶に蓋をして、空想の息子と共に人生を生きてきたのです。

「春にして…」の主人公は性格そのものに問題がある女性でした。ナチュラルに傲慢で身勝手で、他人の気持ちを思いやるということのできない視野の狭い人間です。常習的に愚かな振る舞いをするので、自身の人生を振り返っても、決定的な過ちというものは見当たりません。息を吸って吐くように、日々周りの人間にとって迷惑なことを考え実行するのです。

それに比べて、この映画のジョーンは傷つきながらも健気に闘い、立派に自分の足で人生を歩んでいました。それが一度の過ちで一生の十字架を負うことになるのは、あまりに酷という気がします。事実から目を逸らし、自分の心を守ろうとすることを責める気にはなれません。

そのショックを引きずったままでは、恐らく現在のジョーンの仕事の成功もなかったでしょう。母親として、社会人として立派にやってきたという誇りがジョーンを支えていたはずです。

しかしジョーンは母親からの手紙によって、自身の本当の過去に向き合うことになります。ジョーンの母親はかつて日本人男性と駆け落ちをし、その後ずっと消息不明でした。母親が死んで血縁者として連絡を受け、母が最期のときまで住んでいた部屋を訪れるジョーン。母からの手紙を受け取り、そこに書かれた言葉に物思わしげな表情をします。

母は手紙の中で不倫相手との日本での生活について精一杯嘘で飾りたてて見せたあと、あっさりと「もちろん嘘をついているわ」と認めます。「私が間違えたと言うべき?どのバージョンが好き?」という問いかけは、息子の生存を偽っているジョーン自身の問いかけのようにも聞こえます。

続けて母は正直な気持ちを綴っていました。「自分の間違いは認めず、いつも家族を想っていたわ」。ジョーンはその言葉に、母親としての自分と相通じるものを感じたのでしょう。目の前にいる大人のナタン(ジョーンが頭のなかで作り出した姿)と言葉を交わし、少しずつ遠ざけていた真実に近づいていくのです。

最後には死んだ当時の幼いナタン(本当のナタンの姿)と向き合い、ジョーンは彼を抱きしめてから送り出します。「私は別の方法で乗り越えるわ」。もう空想に逃げたりしない、という息子への誓いです。

そして息子との思い出が詰まった家を売りに出すジョーン。買い手候補の夫婦とにこやかに会話しながら、最後には「あとはご夫婦で話し合ってね」と言葉をかけ、一人庭へと向かいます。そこには芝刈り機に腰かけたパートナーのティムの姿が。首尾よく買い手がつきそうなことを報告し、ジョーンはティムに笑顔を見せます。そして「愛してるわ。あなたに救われた」とティムの肩に頭を預けて、珍しく甘えるような様子を見せるジョーン。離れた場所から幸せそうな2人の姿をとらえたカメラは、少しずつ上に向けられ、最後には薄雲がかかってぼやけた日輪と青空を映して映画は終わります。

一見して、息子の死という事実から目を背けて生きていたジョーンが、最後には過去と向き合い痛みを乗り越えることができた、というハッピーエンドです。

しかしこのエンディングからずっと巻き戻って、ジョーンが死んだ母親の部屋を訪れている最中に一つの奇妙なシーンが挿入されています。それはティムがフラフラと建物の外へと出て行き、中庭のような場所で突然崩れ落ちるように倒れるというものです。その後ティムはごく自然な表情でジョーンの母親の部屋に戻っているので、私には最初そのシーンが何を意味することか分かりませんでした。(てっきり「これも過去のどこかの回想シーンかな?」と思って流していました)

その後、母親の手紙から息子の死と自身が作り上げた空想という事実にジョーンが向き合うことになったのはすでに書いたとおりです。死んだ当時の姿の息子と並んで座り、そのことについて話すとき、ジョーンはこう言っていました。「でも、ある日あなたが戻ってきたの」。それはもちろん痛みに耐えきれなかったジョーンが作り出した空想なのですが、息子のナタンはごく自然に彼女の人生に戻ってきて、共に時間を過ごすようになったのです。

そして空想の息子と決別し、胸を張って庭を歩いて行くジョーンの視線の先には、そんな彼女を優しく見つめるティムの姿が。ジョーンは微笑みながら「来たのね」と言い、ティムは「来るべきだと感じた」と言ってジョーンを抱きしめます。

つまり、このときジョーンは、頭の中で息子ナタンを作り出すことで痛みを乗り越えようとした当時と、まったく同じことを繰り返してしまったのではないでしょうか?誰かの支えなしに、この辛い過去を受け入れることなんてできない。だから今はすでに亡きパートナー・ティムがまるで今も自分の隣にいるかのように空想してしまったのでしょう。

このあたりは作中ではっきりとした描写がないので、ひょっとしたら私の考え違いなのかもしれません。それくらいジョーンの側にいるティムの存在は自然で、それでいて曖昧です。さらにもしティムがジョーンの作り出した空想だとして、次に「それはいつから?」という疑問も湧いてきます。もしかしてジョーンがずっと自分にアプローチしてきていたティムの愛を受け入れたシーンは、すでにジョーンの頭のなかで作り出された虚構だったのかも

「あのとき居眠りしなければ息子を失わずにすんだ」という後悔からナタンの幻に逃げ込んだように、「あのときあの人の愛を受け入れていれば私は独りぼっちにならずにすんだかも」という思いが生み出した幻想なのかもしれません。私たちはジョーンの視点で物語を見ているので、どのシーンもいかにも真実らしく見えます。彼女が幻想から醒めない限りは、鑑賞者も永遠に真実を知ることはないのです

なのでジョーンの母親に「どのバージョンが好き?」と聞かれているように、自分がきっとこうに違いないと思った物語を受け止めるしかないのでしょう。

ジョーンの姿を見ていると、自分の人生を冷静に受け止めることというのは、こんなにも難しいのだと思い知らされます。親しい家族の死を受け入れられずに幻想に逃げ込むというのは極端な例ですが、私たちは誰しも自分の過去を“より受け入れやすいもの”に改竄しながら生きています。“過去をどう受け止めるか”というのは、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの作品でも度々取り上げられるテーマです。人間はみんな自分自身をごまかし、自分の過去を見たいように見ています。私もめちゃくちゃ心当たりがあります。そうやって傷を負っていない振りをし、痛みから目を背けるのです。

そして人生に一度か二度、真実と向き合い、本当の自分を受け止めるチャンスが訪れたとしても…ほとんどの人が自分にとって居心地のいい作りごとへと逃げ込んでしまうのではないでしょうか

「春にして…」のほうでは、私たち読者は主人公ジョーンの視点だけでなく、最後に彼女の夫の心情も知ることができます。自身の傲慢さと独りよがりに気づいたジョーンは、許しを請うために夫のもとに戻ります。夫は彼女の表情から、いつもの愚かな妻とは何か違ったものを感じ取りました。結婚して何十年も経って、やっと夫婦の心が通じ合うチャンスが訪れます。しかし、いざ夫を前にしたジョーンは怖気づきます。旅先での悟りを頭から追い出し、これまでと何一つ変わらない、自信に満ちた態度で家族を教え導く主婦という立場に戻ることを選んだのです。

夫は失望し、こう呟きます。「君はひとりぼっちだ。これからもずっと」

自分自身が作り出した安全な世界に逃げ込んでいる間は、永遠に人と通じ合うことはできないのです

でも本当に完全に自分の真実の姿を直視できる人なんて、果たして何人いるのでしょう?少なくとも私は自信がありません。もしジョーンのように真実に気づくチャンスが与えられたとして、自分ならどうするか…

私もいつかは2人のジョーンの年齢に追いつくのだと思うと、真剣に考えさせられるテーマでした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました♪

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