何となく絵柄に惹かれて観始めたんですが(時間も短かったし。笑)、映画冒頭からバッタバッタ人が死んでいくのがインパクト強すぎて「やっぱ観るのやめよーかな」ってなりました。ネガティブ…とにかく画面がネガティブ…
でも頑張って観たよ!観てよかった!
今回は思いっきりネタバレしているので、未鑑賞の方はご注意ください。
鑑賞のまえに
2012年製作/フランス、ベルギー、カナダ
時間:79分
監督:パトリス・ルコント
・手描き風の、あたたかみのある絵柄が魅力的
・ネガティブで始まるけど、決して暗い映画ではなくハッピーな気持ちになれます
・死にたくなってから観ても遅いので、心が元気なうちに観ておこう
あらすじ
社会全体が絶望に覆われた、とある大都市。そこに住む人々は生きる希望を失い、毎日多くの人が自殺していきます。その街で「自殺用品専門店(スーサイド・ショップ)」を営む一家に、ある日男の赤ちゃんが生まれました。アランと名付けられたその子は、周囲の人々が死に取り憑かれている環境にあっても、明るく天真爛漫にすくすくと育っていきます。
父親はそんなアランを疎ましく思いますが、アランは両親の意に反して日々を楽しみ、兄弟や友人たちにも「生きる喜び」を伝えようとします。やがてアランは家業である自殺用品の販売を妨害するようになり、ついには店をめちゃくちゃにしてしまう“ある計画”を実行に移しますが…
感想
誰もかれもが人生に絶望して死にたがっている、灰色の大都市。道は汚い、昼間でも暗い、通行人はみんな目が死んでいる。そしてバタバタ自殺していく。映画冒頭から、これでもかっていうくらいネガティブな世界を見せつけられます。心がどんより…
この映画のポイントは、何でみんながそんなに絶望しているのかが明確に語られないところです。不景気だから?いや、でもお金持ちのマダムっぽい人や、ちゃんと仕事に就いている人もみんな一様に絶望して、自殺用品を買い求めています。
自殺志願者があふれていて、自殺用品専門店(スーサイド・ショップ)は大儲け。でもそのお店を経営する家族も、店に来る客と同じように人生に絶望して内心では死を望んでいるのです。
客観的に見て、それほど絶望的な状況とはいえない人々が、何故かみんな生きる望みを失っています。あえて理由をあげるなら、社会全体が暗いからそこで暮らす人たちが自然とネガティブに染まっていっている感じ。(あれ、それってひょっとして今の日本の延長線上……汗)人々は「何となく生きる希望が持てない」「何となく死にたい」それを繰り返してきたせいで、もう死ぬこと以外に何も考えられなくなったのでしょう。
実際に自分でも「死んじゃいたいな」とか思うときって、視野が狭くなってることが多い気がします。もっと本当にピンチなとき(仕事が無くてお金も無いとか)には必死に生きていたのに、それより恵まれた状況にいるのにフッと絶望を感じるのって、視野が狭くなって、明るいことやハッピーなことが見えなくなってるからなんですね。
じゃあどうすればいいのかっていうと、外部の力で無理やり視点を切り替えるしかないでしょう。そこで登場するのが、自殺用品専門店に新しく生まれた男の子・アランです。アランは天真爛漫で元気いっぱい。ある意味で普通の男の子。でもこの映画の世界では太陽みたいに明るく輝いています。画面が真っ暗だから、一点普通の色を置くだけで光って見える。コントラストの効果がすごいです。観客はアラン少年に癒やされまくります。
自殺志願者を轢き殺しながら走るスクールバスの中で、友達と大声で歌うアラン。お店の客が橋から川へ飛び込んで死のうとするとき、足につないだ重りのチェーンを切って颯爽と去っていくアラン。「死にたい」を連発するお姉さんの誕生日に、セクシーなスカーフとムードたっぷりのCDをプレゼントするアラン。(そしてそれを聴きながら裸で踊るお姉さんを友達と覗くアラン)
こんな世界でもネガティブに染まることなく、子供時代をめいっぱい楽しむアランは稀有な存在です。ですが、ただアランが笑顔で生きているだけでは、社会全体はおろか家族のネガティブムードを払拭することもできません。そこでアランは仲間といっしょにちょっと大がかりな計画を考えます。それは店の外に停めた車のスピーカーから大音量の音楽を響かせ、その振動で自殺用品専門店をめちゃくちゃにしてしまうというもの。
毒薬の瓶は棚から落ちて粉々になり、ありとあらゆる凶器が床に散乱します。計画はうまくいくかと思われましたが、車のキーをママに奪われてしまいます。そして、しょんぼりしながらお店に入ったアランたちが目にしたのは、どっかのイケメンと抱き合ってキスをするアランのお姉さんの姿でした。お姉さんはアランが流した音楽に合わせて、店に自殺用品を買いに来ていた青年と一緒にダンスをし、恋に落ちていたのです。
ここから物語は急展開し、ネガティブすぎて死にかけていたパパの抵抗に遭いながらも、最終的には家族は自殺用品を売るという家業から解き放たれることになります。その後はみんなでウキウキとクレープなんか焼いちゃったり、それを食べた街の人たちも楽しい気分になって死ぬことなんか考えなくなっちゃったり、実にあっけなくネガティブの呪縛が解けていきます。クレープ恐るべし。
自殺することばかり考えるのは視野が狭くなっているから。その状態のときに、アランが「人生って楽しいよ、素晴らしいよ!」と訴えても、正直あまり効果はありません。言葉とか思想とか観念とか、そういうのってある程度心が元気な人のためのものです。
ネガティブで心が疲れきっている相手には…口に美味いものを詰め込んでやれ。笑
「死んじゃったら美味しいものも食べられなくなるんだよ!」とかいう“言葉”は要りません。心が疲れすぎてて、美味しいものって聞いても瞬間的にその素晴らしさを思い出せなくなっているからです。もう直接口にねじ込んで、本人の舌で味わってもらうしかない。
ドラマ「きのう何食べた?」のワンシーンで、弁護士事務所に自己破産の手続きに来ていた社長さんが鰻を食べるくだりを思い出します。背中を丸めて無気力に小さくなっていた社長が、主人公が勧めた鰻重を一口食べると「こんなときでも美味いものは美味いんですな」みたいなことを言って、泣きながらパクパク食べるシーンです。そう、絶望してても美味いものは美味い、私も覚えがあります。
あるいはアランのお姉さんみたいに、目の前にイケメンを置いてみるとかね。笑
とにかく、そういう本能に根ざした部分を刺激するのが効くのでしょう。本当に絶望的な状況に追い込まれていたらまた話は別ですが、ただ視野が狭くなっていてネガティブの沼から抜け出せない人には、半強制的にハッピーを味わってもらうのが一番です。
映画のラストで、クレープ屋(元自殺用品専門店)の周りで、これまで自殺してきた街の人たちの幽霊が昇天していく様子が描かれます。楽しそうに歌い踊る生者たちを横目に「後悔先に立たず」「人生の楽しさに気づいていれば」って言いながら天に昇っていくくだりは、「このハッピーな大団円に、このシーン要る?」って笑っちゃいそうになりますが、そのへんのセンスがフランス映画っぽいのかな?エスプリってこういうのを指すのでしょうか、すごく好き。
でもこの死者たちは、最後に良いことを言います。「不平を言うな」。いや、本当におっしゃるとおり。どうしても辛いときに誰かに話を聞いてほしいのはみんな一緒ですが、ただネガティブな気分に浸っていたくて不平のタネを探す人って実際います。「そんなの私の勝手でしょ」って思うかもしれませんが、全員がそれをやりだして社会全体がネガティブに染まってしまったのが、この「スーサイド・ショップ」の世界なのでしょう。
前向きでいることって楽じゃないです。前向きでいる限り何か行動を起こさなくちゃいけないし、行動を起こせば失敗もします。それで人に笑われたり、自信を失いそうになったり。確かにネガティブに染まって、何もしないでいるほうがある意味楽かもしれません。でも、その行きつくところが自殺しかないとしたら…やっぱりどこかで踏みとどまるべきなのでしょう。
自殺という手段は、本当にもっと絶望的に追い込まれてしまったときのための奥の手であるべきです。ただネガティブの沼から抜け出せないだけなら、美味しいものを食べる。あるいは推しを探す。笑
私もネガティブに染まらないよう、強制的に心をハッピーにしてくれる推しを求めて、今日も映画を観ます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました♪
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