「ハングリーハーツ」ー結局ミナは何に飢えていたのかーネタバレ感想

ドラマ

アダム・ドライバー目当てで観ました。でも見ていくうちに「アダムかっこいい~」という視点じゃなくて、アダム演じる主人公に100%感情移入して映画に入り込んでしまいます。

もしも心が通じ合っていたはずの恋人や家族と、ある日を境にまったく理解し合えなくなってしまったら…そんなときは一体どうするのが正解なんでしょうか。

今回はそんな疑問符を突きつけられる映画「ハングリーハーツ」の感想です。

鑑賞のまえに

2014年製作/イタリア

時間:109分

監督:サヴェリオ・コスタンツォ

出演:アダム・ドライバー、アルバ・ロルヴァケルなど

・ハッピーエンドとはいえないので、ある程度心が元気なときに

・特に妊娠中の人や子育て中の人は、観るとちょっとネガティブな気持ちになるかも

・父性あふれる優しいアダム・ドライバーは最高です

あらすじ

ニューヨークでレストランのトイレに閉じ込められたことがきっかけで出会ったジュードとミナ。二人はすぐに恋に落ち、ミナが妊娠したことをきっかけに結婚します。しかし、ミナはお腹の子どもが“特別な子”であるという考えに取りつかれ、十分な栄養を摂らない、自然分娩に異常に執着するなどの異変を見せるようになりました。

息子が生まれた後も、肉や乳製品を与えない菜食主義や自然療法など、独自の育児法を実践し、人付き合いも避けて息子を外の世界から遮断しようとします。子どもが熱を出しても絶対に医者に見せようとしないミナの態度に、ジュードは不安を募らせました。しかしジュードは彼女への愛情から、息子を守りながらも何とか妻と信頼関係を築こうと苦心します。しかし、息子に栄養吸収を妨げるオイルを飲ませるなど、ミナの異常な行動はエスカレート。追いつめられたジュードは彼女に隠れて息子に栄養食を与え、病院に連れて行きますが、ミナは夫の行動に気づいて…

感想

「自分の子どもは普通の子とは違う特別な存在だから、汚れた食べ物を食べさせてはいけない」という考えに取り憑かれた女性が、我が子にまともに食べ物を与えず飢えさせてしまう。映画は、そんな妻から何とか子供を守ろうとする父親の姿を中心に描いています。

ミナは決して子供を虐待しようと思って食べ物を与えないわけではありません。映画を観ていると、ミナが子供のことを宝物のように大切に扱い、心から慈しんでいることが伝わってきます。またジュードも子供を守りたい気持ちはありますが、食べ物を与えるのを妨害するミナを憎んではいないことが分かります。むしろこのような異常な状況でも、何とか家族としての形を守ろうと足掻いているのです。

「この子は特別な子なんかじゃない。他の子と同じものを食べる、普通の子供だ」。そんなジュードの訴えがミナの心に届きさえすれば、家族みんなが幸せになれるはずなのに。それが叶わず、ジュードが次第に追い込まれていく展開は見ていて息苦しいほどです。

私は映画を観ているあいだ、どうしてミナがこんなことをするのかをずっと考えて考えて、結局はっきりとした答えは分かりませんでした(心理学に詳しい人なら容易に解説できそうな事例ですが)。

とにかくミナは「自分の子どもは、選ばれし特別な存在(だから私の育児方法は普通とは違っていても絶対に正しい)」という考え方に固執しています。レオナルド・ディカプリオに「インセプション」されたのかっていうくらい、周りが何を言っても聞く耳を持たず、病的なまでにその考え方にしがみついています。

そのきっかけは何だったのかと振り返ると、やっぱり妊娠中に占い師のところに行って「お腹の子供は“インディゴ”だ」と言われた一件でしょうか。ただこの占い師のシーン、映画でははっきりとは描かれていません。ただミナが1人でフラッとそれらしき店に入っていく描写と、帰宅してジュードに「こんなこと言われたの!」と興奮気味に話すシーンだけです。

占い師は実際にはミナに何を言ったのでしょうか?倫理的に考えて、まさか「妊娠中にものを食べるな」とか「何があっても絶対に自然分娩しろ」とか「生まれた子供に肉を食べさせるな」とかは言わないでしょう。ということは、そのあたりは全てミナの勝手な決めつけと思い込みだったことが分かります。

占いとは、ある種の人にとっては、占い師の話を聞かせてもらう場所ではなく、占い師に自分の話を聞いてもらいに行く場所のようです。家族や友人に言っても相手にされないような話でも、占い師ならちゃんと耳を傾けてくれますからね。つまりはミナもそういうタイプだったのではないでしょうか。下手すると“インディゴ”うんぬんも、ミナが自分から「この子って特別な存在“インディゴ”なんじゃないですか?」と口にしたのに対して、占い師が空気を読んで「きっとそうよ」と返事をしていただけの可能性があります。

思い込みが強い人は、1人自分の味方を見つけると暴走しやすいのも世の常。ミナはここから医者やジュードの言うことにまったく耳を貸さず、「自分のやり方が絶対正しい」と信じ込むようになるのです。

どこかのシーンで、ミナの育児方針に疑問を呈するジュードに対し、ミナは一言こう告げます。「私は直感的に分かったの」。こう言われてしまったら、もう夫婦の話し合いも何も成立しません。「あなたの意見なんか一切聞く気はないから、黙って私に従って」と言われているも同然です。

ミナはそんな風に突き放すつもりはなかったかもしれません。むしろ本気で自分の「直感」を信じてほしいと思ったのでしょう。この映画を観ていると、はしばしでミナがジュードの愛情と信頼を試しているのかな?と感じるようなシーンがあります。小さい子がワガママを言って「でも私のこと嫌いになったりしないよね?」って相手の様子を伺うような感じです。

私は心理学の難しいことは分かりません。だからあくまで自分に重ね合わせて直感的に思うだけなんですが、何となくミナは本当は占い師なんかじゃなくて、ジュードに共感してほしかったんだろうなぁと思います。占い師くらいしか自分の言うことをまともに聞いてくれないなんて、すごく孤独な状況です。本当は子育てのパートナーである夫に一番の理解者になってほしいのに。

もともと意図しないタイミングでの妊娠発覚。故郷や血縁から遠く離れた国でこれからずっと暮らすことになるという孤独感。初めての妊娠による不安定な精神状態。つわりでまともに食べられないことへの不安もあったでしょう。そんなときに「私が食べられないのは、お腹の子が特別な子だからかも」とかちょっとした思いつきを口にしてみて、ジュードに「そうだね、きっとこの子は特別な子だから大丈夫だよ」って返してもらってたら、ひょっとしたら“インディゴ”とか突拍子もないことは言い出さなかったのかも…。

もちろんジュードに落ち度があるわけではないのですが、人間同士の間柄って「ここは押さえておくべき」っていうポイントがあるものです。ミナにとっては、それが妊娠中のそのときだったのかも。不安、寂しい、寄り添ってほしい。相手にかけたそんな期待が裏切られたとき、ミナのような女性はどうしようもなく意固地になります

何度も言いますが、ジュードは何も悪くありません。ちゃんと妊娠中のミナに優しくしてたし、ミナが“インディゴ”とか言い出したときにはつい笑ってしまいますが、別に馬鹿にしたような感じの悪い笑い方でもなかったんです。ジュードは、ミナだってそんなこと本気にしてないと思っていたんですから。

でも、それがダメだったのかな…と思うと何ともやりきれない気持ちになります。誰かと一緒に生きていくうえで、相手に100%の安心や満足を与えるって本当に難しいんですね…。

題名の「Hungry hearts」は複数形になっています。食べ物に飢えている子供、ごく当たり前の家族としての幸せに飢えるジュード。じゃあミナは何に飢えていたのでしょうか?「君の子育ては正しい。僕たちが間違っていた。この子は君のいうとおり特別な子供だ。普通の食べ物はこの子にとって毒だ」って周りに認めさせることができたら、その飢えは満たされたのでしょうか?

映画の最後のほうで、子供をジュードから取り返したミナが、2人きりで海に出かけるシーンがあります。電車の窓の外を流れていく、美しい町並み。ミナと子どもは暖かなオレンジ色の光に照らされ、ごく普通の幸せな母子のように見えます。あれだけ子どもが汚れることに神経質になっていたミナですが、このお出かけのシーンではリラックスしていて、子どもを抱えながら波に足をつけたりしてはしゃいでいます。

砂浜に座って、ミナが夕暮れの海を眺めるカットもすごく印象的です。子どもを取り戻すことができて嬉しそう…でもミナの目には同時に悲しげな色がありました。ひょっとして今の幸せが長く続かないことを、直感的に理解していたのかも。あるいは警察を動かしてジュードから無理やり子どもを奪い返す、そんな家族の在り方をミナも本心では望んでいなかったからかもしれません

自分の思い込みに固執して子どもを飢えさせるミナというキャラクターを、決して好きにはなれません。でも、「この人は自分には理解不能の宇宙人だわ」といって切り捨てることもできない。彼女がどうしてそうなってしまったのか、きっと何度でも考えさせられることになるのでしょう。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました♪

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