「他人って…うっとおしい」という事実~「ザ・スクエア 思いやりの聖域」感想~

コメディ

アマプラの配信が終わってしまいました…。

配信終了の48時間前に存在を知って、慌てて一気に鑑賞。

感想を書くのには間に合わなかった(涙)。

でも観ていると色々な考えが湧いてくる映画なので、感想記事を残しておきたい。

ということで、鑑賞からすでに1ヵ月くらい経ってるけど、今から頑張ってうろ覚えで書くよ!

私の穴だらけの感想じゃ全然もの足りないという方は、ぜひ映画を観てください(何らかの方法で)

鑑賞のまえに

2017年製作/スウェーデン

時間:142分

監督:リューベン・オストルンド

出演:クレス・バング、エリザベス・モス、など

・人間の嫌~な部分や人間関係の気まずさを描いた、居心地悪いジョークが満載

・わかりやすいエンタメ映画ではないうえに時間も長いので、好みが分かれます

・現代美術をテーマにしていて、小難しく考察しようと思えばいくらでもできそう

あらすじ

クリスティアンは、ストックホルムの現代美術館のキュレーター。彼は次の展示「ザ・スクエア」、地面に正方形の照明を施した参加型のアートの企画をしていました。その中ではすべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われるという“思いやりの聖域”を表現したアートです。現代社会のエゴイズムや貧富の格差に問題提起するもので、善なる精神をストレートに表した展示をどう宣伝するかで、美術館のメンバーと広告会社の人たちは頭を悩ませます。

その一方で、クリスティアンはプライベートで思わぬトラブルに見舞われます。彼は街で財布とスマホを盗まれてしまい、GPSで犯人の住所を突き止めた彼は、部下とともにそのマンションすべての部屋に脅迫状を配って奪われた物を取り戻そうとしますが、その結果、無関係の少年から謝罪を要求されることになり…

感想

スウェーデンの映画です。

北欧の古い格言集に「人は人にとって喜びである」みたいな言葉があるらしいですが、この映画はそれと真逆の真理を訴えかけてきます。

つまり「人は人にとってストレスである」

何というか、この映画には「あ~…他人ってマジうっとおしいぃ~!!」という、現代人が日常的に感じているストレスがギュウギュウに詰め込まれているんですね。観ていると何だか息苦しい。酸欠状態の金魚のようにお口をパクパクしてしまいます。ただでさえ日頃からストレスフルなのに、何だって映画観ながらこんな思いをせにゃならんのだ、と思わされること必至です。

まず前提として、この映画は2つのストーリーが並行して進んでいく構成になっています。

主人公は現代美術館のキュレーターで、今度美術館で「スクエア」という、人と人の間の公平さや思いやりをテーマにした作品を展示することになりました。何もない地面に正方形の枠だけを置き「この中では誰もが平等の精神を持ち、互いに助け合うこと」というコンセプトを持たせる、ザ・現代アートですね。その展示をどう世間に宣伝するかと美術館メンバーや広告会社の人があれこれ試行錯誤する(そしてやらかしちゃう)というストーリーが、まず1つめ。

そして2つめは、街中でスリに遭って頭にきた主人公が、自分の財布を盗んだ犯人が潜んでいる低所得者向けの集合住宅で、「てめーこの犯罪者が!居場所は分かってんだからな、財布返せオラァ」的な脅迫状を、全ての部屋の郵便受けにねじ込む暴挙に出るというもの。そこから生じたゴタゴタを描いたストーリーです。

つまりは「思いやりって素晴らしいよね、人間はみんなイーブンな存在だよね」と訴えるキラキラ・リベラルな現代アートと、それを取り巻くゴミみたいな人間性の対比を面白おかしく描いた作品になっています。これだけ書くとシンプルな印象ですが、この映画はそこにこれでもか!これでもか!と「現代人の醜悪さや、他人に感じるストレス=今の社会の歪つさ」みたいなものを描く場面を乗っけていくわけです。

おかげでテンポも悪くなるし、長尺で観ていて疲労も溜まっていきます。誰が得するんだ、この映画は…。でもカンヌでパルムドール賞獲ってるらしいんで、少なくともカンヌの審査員の人たちにはご馳走だったんでしょう。

確かに、他人に感じるストレスを皮肉ったシーンはどれも絶妙です。だから「しんどいなぁ」と思いながらも、ついつい最後まで観てしまう。

特に私が印象的だったシーンは、現代アートに関するトークイベントの会場シーンですね。インタビュアーがアーティストに真面目な質問をしているんですが、その場にいる観客の1人がどうやらチック症の一種を抱えているらしく…大きい声で放送禁止用語を連発してしまいます。映画「マザーレス・ブルックリン」でエドワード・ノートンが演じた主人公のアレです。ただしブルックリンと違って、とにかく声がデカい…会場中に響き渡っています。

そういう状況って、皆さんだったらどう感じますか?相手は病気だから、もちろん出ていけとは言えない。自分が相手の状況を思いやって我慢すべきだと思う。でも、もし私があの女性インタビュアーの立場だったら、大勢の人が聞いているところで卑猥な言葉で罵られ続けたら、心穏やかではいられません。つまりそれが“他人に感じるストレス”なんです

もし相手が違法行為をしていたら、堂々とそれを非難して、いうなれば相手を“排除”することができますよね。でも現代社会で相手に感じるモヤモヤって、そこまではいかないレベルの些細なものが圧倒的に多い。この映画はそういうモヤモヤの見本市みたいなものです。

例えば主人公が酔った勢いである女性と性行為に及ぶ、その直後に使用した避妊具を女性に渡す渡さないで延々と不毛なやり取りを続けるんです。別に女性側に特別な狙いはなかったようで(主人公はかなりビビッてたけど)、主人公から受け取ったらニヤニヤしながらあっさりゴミ箱に捨てます。「じゃあ最初から俺が自分で捨ててよかったんじゃん、あのやり取りはなんだったんだよ!」という主人公のモヤモヤ(笑)。

さらにこの女性は、後日主人公の職場に押しかけてきて2人が性的関係を持ったことの意味?的な話について、これまた延々と不毛な尋問を続けます。もう不毛すぎて内容も全然覚えていません。確かに男とこういう抽象的な話をしたがる女の子は多いけど、そら相手も疲れるって…。確実にダルいし、職場にまで来てこんな話をされるのは嫌がらせでしかありませんが、もちろん犯罪ではないし責めることもできません。

他にも美術館のレセプション的なイベントが終わって、このあと食事会というシーン。料理長が前に出て料理の説明をしているのに、ゲストは全然聞いちゃいなくてワイワイガヤガヤしながらさっさと部屋を出ていこうとします。それを壇上から眺めている料理長の視点に立って、またモヤモヤ。そしてキレた料理長がデカい声でゲストを制止すると、見事にピタッと動きを止める阿保みたいなゲストの群衆にまたモヤモヤ。

特に面白かったのは、主人公が財布とスマホを盗られたことを部下に相談したときのシーンですね。スマホのGPSで場所を特定した部下は、「部屋番号まで分かんないから、このマンションの部屋全部に脅迫状入れてやればいいんじゃないっすか?」みたいなことを言い出します。それに「おっ、それいいねー!」と乗っかる主人公(二児の父親、環境に配慮した電気自動車所有のインテリ)。

圧倒的な想像力の欠如。直接顔を合わせることのない相手に対しては、とことん無礼になれるという現代人の醜悪さがこのシーンに凝縮されています。

そして、いざ敵地へ!とノリノリでやってきた2人が、実際にそのマンションを目の前にすると急にシーンと静まり返るときのアホ面よ…。現代人は仲間に囲まれているホームでは強気なんですが、一旦アウェイに放り込まれると、どいつもこいつもチワワみたいになるわけです。「項羽と劉邦」でも読んで出直してこいと言いたいですね。

結局2人はどっちがマンションに行って脅迫状を入れるのかを押し付け合い、グダグダな空気の中で主人公が脅迫状の束を抱えて向かうことになります。この時点で主人公も部下にモヤモヤしてるし、部下も主人公にモヤモヤしてるし、何なら観客がこの2人のダサさに一番モヤモヤしています。でもはっきりと断罪することはできないんですよ。別にうっとおしいだけで犯罪じゃないからね。

という感じで、全体にはっきり相手が悪とはいえないけど、でも確実にモヤモヤ・イライラが溜まっていき、ついに1つのシーンで沸点を超えることになります。それが映画のポスターにもなっている、モンキーマンのシーンです。

モンキーマンって何かは聞かないでください。私には分かりません。アートの一種らしいんですが、おじさんが猿になりきるパフォーマンス?のことです。現代アートってマジで懐が深い…。

とにかくこのモンキーマンが、美術館主催の晩餐会みたいな会場でメチャクチャに大暴れします。もちろん美術館側が用意した余興なんですが、演技が真に迫り過ぎててゲストは次第にイライラ→恐怖を感じるようになります。

ゲストの顔を至近距離で覗き込んで髪やら服を触るわ、テーブルの上に飛び乗って料理を散らかすわ、ちょっと大人の余裕を見せてモンキーマンに対応しようとしたインテリにガチの威嚇をして追い出してしまうわ、やりたい放題です。モンキーマンは確実にその場にいるインテリ金持ち連中の「こうあるべき」というマナーやルールを逸脱していて、皆にストレスを与えているんですが、その場にいる誰もモンキーマンがあまりに非常識すぎて声を上げることもできず俯いています。

しかしモンキーマンがとある女性ゲストを椅子から引きずり降ろして上からのしかかったとき、ついに1人の紳士がそれを止めようと飛び出していきました。最初に果敢に飛び出したこのおじいちゃんは立派だと思います。でもね、その後にさっきまで指くわえて見ているだけだった群衆がワッと押し寄せてきてからのシーンは見れたもんじゃないですね。

これまでのストレスをぶつけようとするかのように、スーツを着こんだインテリたちが拳を振り上げ、あっという間にモンキーマンをリンチにかけてしまうのです。「皆が迷惑してるからもう止めなさい」と言葉にすることもできないのに、自分たちが多数派だと気づくや否やストレスを与える相手を集団で滅多打ちにする。…うん、昨今のネット界隈ではもはや珍しくも何ともない光景ですね。ああ、現代人…。

確かに日常生活で他人にストレスを与えられる場面って多いです。「なんでそんなこと言うんだろう」「なんでそんな行動をとるんだろう」というモヤモヤのオンパレードですよ。でもそれに対して、集団でリンチにしたり、関係ない人まで巻き込んで無差別に脅迫状を送りつけたりするのは、絶対に正しくはないよね。キラキラ・リベラルな建前の裏でそんなことしてたら、「スクエア」が訴えるような理想の社会は永遠に来ませんよね、って話なんです。

しかし何で現代人は、こんなにも他人に対してストレスを感じるようになってしまったんでしょう。昔は公共の乗り物の中で赤ちゃんの泣き声が聞こえるのなんて当たり前だったし、子どもたちが道路で遊んでいるのも当たり前だったし、職場のおじさんの体臭が匂ってくるのも当たり前だったし、スネ夫の金持ちマウントも当たり前だったし、クレヨンしんちゃんに出てくるような距離感のないご近所さんも当たり前でした(後半はちょっと違うか)。

でも今ではそれが何だか耐え難いものであるかのようになっています。それは何故か?やっぱり人間が増えすぎて、何だか窮屈な感じがするからですかね。動物とかも限られたスペースで繁殖して個体数が増えすぎるとストレスがかかるっていいますし。

この映画では貧しい移民の人たちが、主人公のような富裕層にとっての“社会の異物”であるかのような描写が度々挿入されますが、ヨーロッパのほうでは特にこうした移民問題→社会の格差・分断が他人へのストレスをより感じやすい状況にしているのかもしれません。もともと住んでいた人たちからすると、自分たちの国に他所から人が押し寄せてきてギュウギュウ詰めになったってことですしね。(ちなみに映画「ミッドサマー」も本作と同じく北欧を舞台にしていますが、移民排斥みたいな旗の画が、ストーリーの本筋に関係ないはずなのに何故か印象的に映し出されています)

人が増えて、ストレスも増えた。それが現代生活の本質なのかもしれません。じゃあ、ストレスフリーな生活を実現するにはどうすればいいの?というと……星新一の傑作ショートストーリー「生活維持省」が頭に浮かぶ人もいるかもしれませんが、その発想はモンキーマンをリンチにしたインテリ層よりもヤバいのですぐに捨て去りましょう。

多分、他人からのストレスをゼロにすることはできません。私たちは何らかの社会に属している以上、ずっとそれを感じながら生きていかなくてはならないのです。

でも人は人にとってストレスを与えるだけの存在でもありません。旅行をしていて地元の人と居酒屋で交流するとき、ご近所さんと助け合うとき、ジャイアンが映画では男気を見せるとき、そんなときには「人っていいな」って思えるはずです。

人は人にとってストレスだけど、喜びでもあります。それを忘れずにいるだけでも、ストレスが少しは和らぐかな。少なくとも人との関わりからストレスよりも喜びを引き出そうとする態度は、人生をより良いものにしてくれるはずです。

それでもどうしても辛くなったら、山奥に行って1週間誰とも会わずソロキャンプでもすればいいんじゃないでしょうか。どんな人間嫌いでも、ちょっと人が恋しくなるらしいですよ。おすすめ。

今回は映画の結末はネタバレしませんが、最後まで観てもスッキリした気持ちにはさせてくれない映画です。この映画を観て感じたモヤモヤをすっきりさせるには、リアルの世界で人と触れ合って喜びを感じるのが一番。私もこんな根暗な感想ばかり書いてないで、このあとはパソコンを閉じてどこかに遊びに行こうと思います(笑)

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

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