「幸せだ」と思える、その心ほど恐ろしいものはない~「幸福しあわせ」ネタバレ感想~

ドラマ

またもやアマプラの配信終了ギリギリ、滑り込みでの視聴です。

ああ、もう1回観ておきたかったなぁ…

「あ、そういう映画なんだ!」って分かってから、冒頭部分とかを見直す楽しみってありますよね。

最初に中盤まで観たときは「ただの頭お花畑な不倫映画かよ、しょーもな」って感じで、耳かきしながら観てたからなぁ…いやー、浅いよね。私っていう人間が。

ちゃんと鑑賞すると、実際は私の好きなホラー短編小説風の名作でした。

しかもヒトコワ系。一見したところはそう見せない監督の手腕がすごい。

ゾクっとしたい人、芸術的な映像を楽しみたい人、切ない短編映画が好きな人、ロマンスにときめきたい……人には向かないかもしれないけど、とにかくおすすめ。

普段は古い映画は観ないという人にも観て欲しいという思いをこめて、ネタバレ感想いきます。

鑑賞のまえに

1965年製作/フランス

時間:80分

監督:アニエス・バルダ

出演:ジャン=クロード・ドルオー、クレール・ドルオー

・不倫のロマンス?後味の悪い家族ドラマ?ゾクっとするホラー?どう捉えるかは自分次第

・50年以上昔の映画とは思えないほど、色彩感覚が今っぽいアートな映像(ひょっとしてフランス映画ってみんなこうなの?)

・「幸福しあわせ」っていうタイトルなのに、全然ハッピーエンドじゃないブラックユーモアが効いてます

感想

人によって見方の変わる映画だと思うのですが、私はこの作品のテーマを「人を死に追いやっておきながら、『幸せだ』と言ってしまえる人間の怖さ」だと考えています。

ストーリーはめちゃくちゃシンプルなので、もう4行でラストのネタバレまで説明しますね。

①フランソワは妻テレーズと可愛い子ども2人に囲まれて幸せに暮らしている

②フランソワはエミリという美しい女性と出会って不倫関係に

③フランソワが妻テレーズに不倫を打ち明けると、テレーズは自殺

④フランソワはエミリと再婚して、再び妻と子どもに囲まれて幸せに暮らす

見てください。4コマ漫画でも描けちゃいそうな、この分かりやすい起承転結

でも何もはしょってないんですよ、これ。

本当にこの映画の内容はただこれだけなんです。

正直②でフランソワとエミリが「愛とはどーたらこーたら」って語り合ってるシーンは退屈すぎて、あまりの苦痛に途中で観るの止めようかと思いました

でもこの映画は映像がとても美しく、つい「次はどんなシーンなのかな」と思って期待して観続けてしまうんですよね。そして④のラストまできっちり観させてしまう。うーん、アニエス・バルダ監督すごい。

ストーリー自体はあまりにシンプルすぎて「で、結局何が言いたいの?」って思った人も多いと思います。不倫相手と再婚して幸せに暮らしました、めでたしめでたし…じゃ、何のメッセージ性もないもんね。

実際に私もテレーズが死んだあたりで「あ~…はいはい、そういうオチね」って、もう知ったような気になってました。そして一足お先に映画全編を頭の中で振り返っていたんですが、そのとき印象に残っていたのはフランソワのほんと~~~に幸せそうな笑顔

フランソワは愛人エミリにも妻テレーズにも、やたら「幸せだ」「幸せだ」って言うんですよね。ただの不倫の胸糞映画だと思っていたこっちは「もう分かったよ、うっとーしーな」と思って聞いているんですが、ふと気づくと何かこのフランソワの無邪気さってすごく違和感があるんです。

私は不倫ドラマとか映画ってあまり観ないほうなので比較対象は多くないんですが、大体不倫ものって「道ならぬ恋をしてしまった悩ましさ」とか「家族を裏切りたくないという思いと情熱の板挟み」みたいな、そういう主人公が抱くネガティブな感情がスパイスみたいなところあるじゃないですか。苦しいからこそ燃える、みたいな。

でも、フランソワには一切それがない

まるで高校生が初めての彼女との恋愛に浮かれているときのような、一点の曇りもない明るさで不倫を(そして家族との団らんを)楽しんでいるのです。

そこに気づくと「こいつ、ある意味すげーーーー!!」ってなりますよ。

家族への後ろめたさとか全然ないんかい!って。

全然ないんですよ。彼の頭にあるのは、ただ自分の“幸福”だけ。

そしてそれがあふれ出して、実際に言葉として口をついて出てくるのです。

「ああ、僕は幸せだ」ってね。

まあ、夫が幸せだ~って言ってるだけなら妻もハッピーだったんでしょうが、何とフランソワはあまりに幸せ過ぎて(決して悩んだ末にとかではなく)、妻のテレーズになぜ自分がそんなに幸せなのかをウキウキと話してしまいます

……いや、バカなの?「家庭の中でも愛があふれていて、家庭の外にも素晴らしい愛がある。最高だと思わないか?」って、キラキラした目で話すフランソワの口の中に、あふれるほどの馬糞を詰め込んでやりたいですね(バックトゥザフューチャーⅢ)。

驚いたことにテレーズは意外と平静です。ちょっとびっくりした顔をしますが、フランソワが「君が今より僕を激しく愛してくれたら、彼女との関係は終わらせるよ(バカ再び)!」とはしゃいで言うのを聞いて、「ええ!きっとできるわ!」とか笑顔になって許しちゃうんです。そしてそのまま2人の熱いラブシーン。

もう私はついていけなくてポカーンでした。ああ~…まぁ半世紀以上前の映画だしね?こんなもんかと、元々フランスの根深い男尊女卑の風潮に良いイメージがなかった私は、また少しフランスが嫌いになって終了…となるはずだったんですが、ここで物語は急展開します

森の中で愛し合ったあとに眠りに落ちてしまった2人。フランソワが目を覚ますと、テレーズの姿が見当たりません。お昼寝から起きてきた子ども達と一緒にテレーズを探すフランソワ。やがて水辺のほうへ行くとそこに何やら人だかりが。嫌な予感がして駆け寄っていったフランソワが目にしたのは、溺れ死んで横たわるテレーズの姿でした。

このシーンを観たときは、妻の体にすがって号泣するフランソワにただ腹が立つだけでしたね。いやいや、お前には泣く資格もねーだろと。

その後はテレーズのお葬式があって、親戚と子ども達のお世話どーする?という話し合いがあって、子どもと離れたくないフランソワがエミリに結婚を申し込んで「子ども達の母親になってくれ」と頼む胸糞な流れがあって、そして最後には新しい家族4人の幸せいっぱいの日常が映し出されて、映画は終わります。

印象的なのは、ラストシーンの構図。家族4人が仲良く手を繋いで森の中を歩いていくシーン。それは映画の序盤のほうで、フランソワとテレーズ、そして2人の子ども達が並んで歩くシーンと、完全に同じなのです。実際にはテレーズとエミリが入れ替わっているのですが、遠目にはその違いなんてわかりません。

つまり、フランソワにとっては映画の始まりと終わりを比較して、何も失ったものなどないのです。彼は映画の最後でも完全に“幸福”な状態に置かれています。

一緒にいるのがテレーズだろうとエミリだろうと、それは問題ではない。

自分の妻であり、子ども達の母親であればそれでいい。

ああ、また僕は何一つ欠けることのない、完璧な幸せを手に入れた…と満足しています

しかし、その2つの場面の間で、彼は自分の裏切りによって妻テレーズを死に追いやっているのです。

そんなこと一切考えもしない、自分の罪の重さに苦しむこともない。

自分のせいで誰かが死んでも、その相手の存在もすぐに忘れて、替わりの“誰か”で埋め合わせてしまう。

そんなフランソワの心以上に怖いものがあるでしょうか?

この“人間というものの恐ろしさ”について分かりやすく書かれているのが、イギリスの短編小説「もどってきたソフィ・メイソン」です。

恋人に妊娠を告げたことで、相手に無残にも殺害されてしまった少女ソフィ。ソフィを殺した男はすぐに国外に逃亡しますが、そこで成功を収めて数十年経って地元に戻ってきました。

とある夕食会で男が他の人たちと食卓を囲んでいると、部屋の空気が張り詰め、どこからともなく女性のすすり泣きが聞こえます。人々が怯え、戸惑っていると、そこに泣きながら懇願するような表情をしたソフィの幽霊が姿を表すのです。

かわいそうなソフィの表情まではっきりと見た人もいれば、幽霊の輪郭だけが見えた人、目には見えずに恐怖と悲しみの感覚だけを捉えた人と、人によって感じ方はさまざまでした。

けれど誰もがその異様な現象をキャッチし、恐怖していたのに、その場でたった一人だけ何も感じずに喋り続けていた人物がいました。それがソフィをその手で殺した張本人の男だったのです

小説は夕食会に参加していた語り手の、以下のような言葉で締めくくられています。

「あのときわたしを震えあがらせたのはーやさしい、かわいそうなソフィ・メイソンの幽霊ではなくー何も見えない目、何もきこえない耳、自信に満ちた騒々しい声でした。ソフィをろくに知らないわたしたちでさえソフィがいるのを感じているというのに、あの男ときたら延々としゃべり続けていたのですー成功話や、金もうけの話や、ピッツバーグでの生活などを」

引用『八月の暑さのなかで』,金原瑞人編訳,(岩波書店,2016年発行)「もどってきたソフィ・メイソン」より

何も見えない目、何もきこえない耳、自信に満ちた騒々しい声。

それはまさに映画「幸福しあわせ」の主人公フランソワの特徴そのものです。

家族を裏切っている自分の罪なんて見えない、不安や嫉妬心を訴える愛人の言葉はきこえない、そして自信たっぷりに「僕は幸せだ」を繰り返す。

そう考えたときに、私は映画のなかのあるシーンを思い出しました。フランソワは水死した妻テレーズの体を抱きながら、彼女が川辺の枝か何かをつかもうと足掻く様子を心に思い浮かべるのです

映画の中ではテレーズが目を覚ましてから水死体で発見されるまでの描写がないので、実際には自殺とも事故とも判断できないようになっています。あんな人の多いピクニック場でテレーズがわざわざ人目につかない場所に行った理由が自殺以外思いつかないので、私には事故とは思えないのですが、もちろんテレーズがそういう場所に行ったら偶然足を滑らせたという解釈もできるわけです。

そしてフランソワにとっては「自分が不倫を打ち明けたせいで妻が絶望して死んでしまった」と思うよりは、偶発的な事故で死んでしまったというほうが、気分がいいのでしょう

テレーズが溺れながら枝をつかもうとするシーンは、そういう意味があったのかな、と。

「彼女は死にたいと思ってたわけじゃない。生きようとして必死に枝を掴んだけど、力が尽きて死んじゃったんだ。うん、そう思うことにしよう」というわけです。

意識的にか、無意識のうちにか、とりあえずフランソワはそう考えることで、自分の“翳りのない幸福”を守りました。

そして一切良心の呵責を感じることなく、テレーズを忘れ、エミリとの新しい生活に踏み出していったのです。

思えば、私が惹きつけられた映画全体の映像美も“フランソワの視点”だからこそ、そう見えるのではないでしょうか?

現実には30代・40代の大人が、世界をバラ色に見ることって難しいです。

周囲への不安や不満もそうですが、反対に周囲に迷惑をかけたり、誰かや何かを犠牲にしたり…大人になるにつれて、自分は完璧な幸福なんてものにふさわしい人間じゃないということも学んでいます

若いときは他人を傷つけることに無感覚な傾向が強いと思いますが、ある程度成熟してくると、まったく他人を傷つけずに生きるのは難しいと理解するものです。

それをちゃんと理解している、というのが大切なんだと思います。

私たちは、自分が傷つけた人のことを忘れてはいけない。

他人の悲しみに無感覚になってはいけない。

自分の幸福だけを追い求めるのではなく、大切な人にも幸福になってほしいと願う。

自分1人で100%の幸福を享受するより、周りの人との70%の幸福を大事にする。

それが人間の正しい在り方なのではないでしょうか?

いつも夢のように美しい、100%の幸福の世界で生きるフランソワは、その無邪気な笑顔の下に怪物の顔を隠しています。

もしも自分がフランソワのように「ああ、私って幸せ!」と思ったとき、誰かを犠牲にしていないか、誰かの悲しみを見落としていないか、一度振り返って公正に考えられる人間でありたいと思いました。

ちなみに“傷つけられた側”の人がどんな思いで生きているのかを忘れずにいるためには、松谷みよ子さんの絵本「わたしのいもうと」がおすすめです。

というか、正直すべての人に読んでほしい。

世界中の宗教教育と愛国心を育てる授業を廃止して、学校で徹底してこの絵本について考えさせるようにしてほしいくらいです。

私はこの絵本に出てくる“いもうと”の存在を知ったとき、もう二度と100%完璧な幸福なんて感じられないだろうと思いました。

この世界にはたくさんの傷ついた人、悲しい思いをした人達がいて、それに何らかの形で関わっている私の存在がある。

フランソワのように幸せな人でいるより、ただただ優しい人間になりたい。心からそう思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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