より卑しく、より気高く~「グリーン・ナイト」ネタバレ感想~

アドベンチャー

さすがA24、という感じで文句なしの映画体験でした。

緑の礼拝堂で、無言のままに時間が流れていくシーンとか震えましたね。

私は10代の頃にローズマリ・サトクリフの小説に出会ってから、アーサー王伝説が大好きです。数あるアーサー王と騎士たちのエピソードの中でも、特に人気があって知名度の高い“サー・ガウェインと緑の騎士”。

A24がこの話をどうアレンジしてくるのかとワクワク半分、ヒヤヒヤ半分でしたが、意外と正統派のストーリーで感激!

ダークファンタジーという触れ込みだったけれど、そもそも原作が“全身緑の異形の騎士が、切り落とされた自分の首を脇に抱えて何事もなかったかのように去っていく…”という話だからね。子供向けの可愛い挿絵の絵本で読むのでもないかぎり、普通に映画にしたらこういうテイストになりますよ。

神秘の力への畏れと、それに対峙する人間の勇気がアーサー王物語の魅力です。この映画は現代の映画ファンに、暖炉の火の側でアーサー王の伝説を語り継いだ時代と同じ楽しみを与えてくれます。

とはいうものの、この映画では非常に重要な部分が原作から改変されているのに注目。

私はそこが好き、すごく好き!“サー・ガウェインと緑の騎士”のストーリーがあってこそ、この改変に意味があるという、原作へのリスペクトがあるところも好きです。

というわけで、アーサー王伝説が好きな人にはぜひ観てほしい「グリーン・ナイト」の、ネタバレ感想いきます!

鑑賞のまえに

2021年製作/アメリカ

時間:130分

監督:デヴィッド・ロウリー

出演:デヴ・パテル、アリシヤ・ヴィキャンデル、他

・神秘的な雰囲気が魅力ですが、画面は終始暗くて重苦しい色調なので、明るい冒険ものを期待してはダメ

・緑の礼拝堂に着いてからの静寂のシーンは必見。現代の映像作品ならではの、死と向き合う緊張感と神秘への畏敬の表現

・1人の青年の成長を描いた、感動的な物語です

感想

より気高い自分になるための、騎士の探求の旅(Quest)。

この映画の主人公は原典より卑しい人間としてスタートし、最後には本場のサー・ガウェインよりも気高い精神を見せます。

つまり“サー・ガウェインと緑の騎士”よりも長い旅路を辿ることになるのです。

その尊さを語るためには、まず原典である中世文学のほうの簡単なおさらいを。(専門家とかではないので間違いがあったらすみません)

~円卓の騎士たちが集まる宴の夜。全身緑の色に覆われた騎士が現れ、円卓の騎士たちにとある勝負を持ちかける。今この場でまず自分が騎士から一撃を受ける。そして1年後に、今度は自分が騎士に同じ一撃を喰らわせると。

アーサー王自身がこの挑戦を受けようとするが、甥のガウェインが王を守るために進み出て、緑の騎士と対峙する。

ガウェインは緑の騎士の首を切り落とすが、緑の騎士の身体は起き上がり、床に転がった自分の頭を脇に抱える。そしてその頭がガウェインに向かって、一年後「緑の礼拝堂」にやってきて自分の一撃を受けるようにと告げる~

この一連の衝撃的なシーンが第一部。正直“サー・ガウェインと緑の騎士”の物語というと、真っ先にこの場面が思い浮かび、その後はどういう展開だったっけ~?とあやふやな人も多いのでは(私だけ?)。

物語としての掴みはバッチリ!とは、まさにこのことですね。いや、一度読んだらなかなか忘れられないシーンです。

でもこの物語で大切なのはここから後。ガウェインは一年後、最後には自分の首を切り落とされると分かっていて緑の礼拝堂を探す旅に出ます。その、死と向き合う勇気、最後まで円卓の騎士にふさわしい振る舞いをしようというガウェインの気高さが、この物語の普遍的なテーマとなっています。

~ガウェインは緑の礼拝堂を求めて方々を訪ねて回るが、それらしき場所は見つからない。やがて約束の一年になろうというクリスマス・イヴの日、とある城に立ち寄ると、その城の城主が「緑の礼拝堂」はここからすぐ近くの場所にあると言う。

まだ約束の日まで時間があるので、城主はガウェインにそれまで城に滞在するように求め、彼の滞在中はお互いにその日獲得したものを友情の証として交換しようと申し出る。ガウェインは了承するが、城主が狩りに出かけると、何と城主の奥方が彼の寝室に入ってきてガウェインをしきりに誘惑する

ガウェインはその誘惑を退けて、一日の終わりに城主と贈り物を交換するときは、奥方から受けた口づけを領主へと返す。そのやり取りが二日続き、三日目にもガウェインが誘惑を退けると、奥方は諦めて代わりにと緑の帯をガウェインに差し出す。その帯を身に付けていれば、誰も貴方を傷つけることができないという奥方の言葉に惑わされ、ガウェインは夜に城主から狩りの獲物を差し出されても、自分の帯のことは黙っている。そしてガウェインは城を後にして「緑の礼拝堂」へ旅立つ。~

おとぎ話とアダルトなムードが入り混じった、不思議な世界観。これぞ中世文学の魅力ですね。今回の映画感想はほとんど“サー・ガウェインと緑の騎士”の話で終わってしまいそうですが、物語のクライマックスはまだまだこれからですよ!

~「緑の礼拝堂」では、約束どおり緑の騎士が斧を持ってガウェインを待ち受けていた。ガウェインは緑の騎士の一撃を受けるべく、彼の前に跪く。緑の騎士は二度斧を振り下ろすが、いずれもガウェインの首には触れることなく、直前で止まる。三度目に斧が振り下ろされたとき、刃先がガウェインの首をかすって切り傷をつくる。

ガウェインはこれで一撃を受ける義務は果たしたと立ち上がり剣を構えるが、緑の騎士はそんな彼を制して言う。実は自分はガウェインが滞在していた城の城主で、奥方の誘惑も彼の差し金だった。ガウェインが騎士らしく二度誘惑を退けたため、二度斧を首に触れる寸前で止めた。しかし三日目に奥方から受け取った緑の帯を命惜しさに隠し通したために、三度目は傷を負わせたのだ。

ガウェインは自分の卑しさを恥じて嘆く。緑の騎士はそんな彼を慰め、彼の勇気と礼儀正しさを褒め称えた。ガウェインはアーサー王の宮廷に戻り、皆に旅のあらましをすべて包み隠さず話して聞かせる。宮廷の人々がガウェインを称賛し、そこで物語は終わる。~

はい、これが“サー・ガウェインの緑の騎士”の物語です。こうやって駆け足でストーリーを追っていっただけでも、映画が意外と原典に忠実に作られているのが分かりますよね。

では、映画では何が新しかったかというと、まず一つがガウェインのキャラクター設定。原典では、最初から円卓に名を連ねる立派な騎士として登場しますが、映画のガウェインは王の甥というだけで、そのへんの自堕落な平民の若者と大した違いはない様子。ダラダラと無為に日々を過ごし、そんな生活に焦りを感じています。

ある意味で気高い騎士よりも、現代の観客に共感しやすいキャラクターですね。

そんなガウェインがクリスマスの宴で緑の騎士の挑戦を受けたのは何故か?第一に、騎士になるために、早く名を上げないといけないと焦っていたこと。そして第二に“これはゲームだ”と言われていたので、まさか本当に自分の命を賭けたりすることはないだろうと思っていたこと。

王を守るため、とかではないんです。焦燥感と、若さゆえの甘えが招いた結果。ガウェインは一撃で緑の騎士の首を切り落として一安心、と思っていると、まさかの相手が悠々と立ち上がって一年後の約束をして去っていく姿を、放心状態で見送ることになります。

そして一年後、内心で慄きながら過ごしていたガウェインのところに、アーサー王が自らやってきて約束を果たすよう告げます。こうしてガウェインは、上から圧力をかけられる形で、渋々旅に出たのでした。

映画の中で、ガウェインがやけに黄色いマントを身に付けているのが目を引きますが、中世ヨーロッパでは一般的に黄色は「蔑みの対象」を意味する色です。あるいは不誠実や臆病を表す色でもありました。つまり、このマントの色は、騎士としての約束なんか守りたくないという本心、死を心底恐れているガウェインの心の内を表し、彼が卑しい人間であることを示しているのです。

このまっ黄色のマント、ガウェインは映画の最後の最後までしっかり身に付けているんですね。これは彼が騎士としての名誉を追い求めた伝説上のサー・ガウェインとは違い、現代を生きる我々に近い存在、より人間臭いキャラクターであることを強調しているのではないでしょうか。

旅の途中、強盗に遭い、超自然的な存在の乙女を助け、巨人の群れに遭遇するといった、王道なQuestを経験するガウェインですが、彼は最後まで黄色のマントをまとう生身の男であり続けます。

さて、原典のサー・ガウェインの物語と映画との違いの1つが主人公のキャラクターだとすると、もう1つの違いは何か。それは、最後に緑の騎士と対峙したときのガウェインの行動にあります。ここが、この映画の感動ポイントです。

伝説上の気高いサー・ガウェインは、それでも死への恐怖を完全に克服することができずに、緑の騎士の一撃を受けようとしたとき、腰には緑の帯を身に付けたままでした。緑の騎士はその弱さを見抜き、斧を振り下ろしたときに彼の首に傷を与えます。

結果的にサー・ガウェインの弱さは、緑の騎士から許されました。彼はアーサー王の宮廷でも人々から称賛され、冒険の旅をやり遂げた立派な騎士として受け入れられます。

……でもね、彼が最後までビビッてたのは紛れもない事実であり、騎士らしい立派な仮面の下には、ずっと臆病者の顔を隠していたわけです。首を切られると分かっていて緑の礼拝堂を目指すのは勇気が要りますし、美女の誘惑を退けるのも意志の強さを感じます。でも、いざ死が目の前に迫ってきたときには、その恐怖に勝てなかったんですよね。最後にサー・ガウェインがそんな自分を恥じて嘆くシーンも感動的ではありますが、彼がこのQuestで何か成長を見せたのかというと…。

円卓に名を連ねる立派な騎士としてスタートしたからこそ、あまりそこからの伸びしろは感じなかったというのが正直な感想。最後まで「まぁ、このくらいはできるだろうな」というレベルに留まっています。

(私はアーサー王物語の中でガウェイン推しではないので、辛口ですみません。ある意味、豪快で忠実で勇敢なサー・ガウェインが時折見せる弱さこそが、彼の魅力とも言えますが。「サー・ガウェインの結婚」のエピソードも、結構人間臭くて好き。)

さて、対する我らが臆病な主人公、黄色のマントをまとわされたガウェインが、緑の礼拝堂でどのように振る舞ったのか。

彼はガタガタ震えながら緑の騎士の前に跪きます。そして斧が振り下ろされようとするその刹那、彼は恐怖のあまり尻もちをつき、緑の騎士に許しを乞いながら、這うようにしてその場から逃げ出します。黄色いマントにすっぽりと体を包んで帰路につくガウェイン。

…という、残念すぎる展開は、実はすべてガウェイン自身の空想でした。「死にたくない!逃げ出したい!」その思いが最高潮に高まったとき、彼は「もし生きながらえることができたら、その後どうなるのか」という想像を一瞬にして巡らせたのです。

ガウェインの空想は広がっていきます。情けない自分を慰めてくれる恋人。自分が約束を果たせなかったと知りつつ、王は(他に候補者がいないから)後継者に指名してくれる。王も王妃も死に、卑怯で臆病な心を隠したままで、自分は王位を継ぐ。

そのために、ふさわしい身分の女性と結婚する。自分の子どもを産んだ恋人を残酷にも捨て去って。そんな男に人々がついてくるわけもなく、民衆からも蔑まれ、叔父のアーサーのように立派に国を治めることは叶わない。唯一心から愛していたはずの息子は、戦争で失う。やがて国は傾き、栄光の王国は崩れ去る。そして城が落とされたとき、王である自分も首を落とされる

そう、今緑の騎士の斧で落とされるのと同じように。

彼は数年、数十年の命を惜しんだその先に、どのような未来が待ち受けているのかを悟りました。今よりも情けない男になって、大切な人や国中の人々も巻き込んだ挙句に、結局首を落とされて死ぬ。

今このときの誇りある死か、生き永らえた果ての不名誉な死か。

ガウェインは自分の意志でその選択ができるのだと理解したとき、斧を振り下ろそうとする緑の騎士を「待て」と言って制します。

そしてずっと大事に身に付けていた緑の帯を引き抜いて、草の上に投げ捨てるのです。

静かに「覚悟はできた」と告げて、再び頭を垂れるガウェイン。

彼は伝説上のサー・ガウェインも成し得なかったこと、死の恐怖を完全に乗り越える勇気を示しました。これぞ円卓の騎士というべき、素晴らしい態度で。

ガウェインは私たちと同じ普通の人間として、死に恐れ慄き、斧が迫ってきたときには怯み、子どものように涙をこぼしました。そんなにも恐れていた死を、最後には受け入れる勇気。これが気高さではなくて何だと言うのでしょうか。

全然関係ない映画ですが、「キングスマン」でコリン・ファース演じる英国紳士が、労働者階級である主人公の少年に語る言葉を思い出しました。

「人よりどれだけ優れていても、気高いとはいえない。真の気高さとは、過去の自分を乗り越えることだ」

もとはヘミングウェイの言葉らしいですが。良い言葉ですよね。なんかチェ・ゲバラも過去の己を乗り越えて前進することが大切だ…的なことを言ってた気がする。

つまりは、人はどれだけ成長したかで、自分の真の価値を示すことができるのです。

その点で、原典のサー・ガウェインのQuestは十分だったとはいえません。彼は緑の帯を捨てなければならなかった。アーサー王伝説のファンとして、正直すっごくモヤモヤします。サー・ガウェインが未完のままで終わらせた旅を、いわば映画のガウェインは引き継いだ形になります。

彼は立派な態度で緑の帯を投げ捨て、人はこれだけ気高くなれるのだということを示してくれました。600年程の時を経て、今ここにアーサー王伝説のタペストリーがあるべき形に修復されたのを見たかのような気持ちです。いや、大満足。

ちなみに「緑」という色について、城主の奥方が何か怖い雰囲気で色々語っていましたが、つまりは緑とは、生命が成長する圧倒的な力のシンボルだと言いたかったのだと思うんですよね。

特に、母親が感じる息子の成長。

これは原典の「サー・ガウェインと緑の騎士」にも共通することなのですが、実は城主を緑の騎士の姿に変えてアーサー王の宮廷に差し向けたのは、ガウェインの母親なんです。映画でもガウェインの母親が怪しげな魔術を使っているところが描かれていたので、そこはわりと分かりやすかったと思います。

原典のアーサー王伝説では、妖女モルガン・ル・フェイはアーサーの宿敵というキャラクターなので、緑の騎士を差し向けた理由としては、王を害するためというのが一番ありそうな話。じゃあ、映画は?

映画に登場するガウェインの母親は、おそらく息子に成長の機会を与えるために、この冒険のすべてをお膳立てしたのではないでしょうか。ガウェインの旅には常に超自然的な女性の存在があり(幽霊、巨人、城主の老母)、盗賊の中にすら女性がいました。

男があらゆる形で母なる者に見守られながら成長する、ということを表しているように感じられます。

そしてガウェインの奇妙な道連れであるキツネ。ヨーロッパでは、魔女がキツネに姿を変える逸話がよく見られるそうで、この場合もガウェインの母がキツネになって息子を見守っていたと考えてもいいでしょう。(緑の礼拝堂に向かう前に、キツネが帯を捨てることについて言及しているのは、親心でヒントを与えてしまった?)

城主の奥方が緑の色について、「欲望の後、子宮に残る生命の色」と表現しているので、ガウェインの母親にとって、緑の色は愛する息子そのものを象徴しているのかもしれません。

帯を投げ捨てて、斧の一撃を受け入れようとしたガウェインを見届け、緑の騎士は「我が勇敢な騎士」と彼を褒め称えます。そしてガウェインに無傷のまま去るように告げた彼の微笑みは、愛情深い父親のそれのようです。厳しい態度で試したあとに、期待に応えた我が子を慈しむ父性。

母性と父性の両方に包まれながら、立派な大人に成長する若者

映画「グリーンナイト」は、ごく一般的な若者の成長を描く物語ともいえるでしょう。

抒情的な音楽もたいへん美しい映画です。

ぜひA24の芸術性に彩られたアーサー王伝説を堪能してみてください!

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

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