アメリカという辺境に流れるジャズの音~映画「Rainレイン」ネタバレ感想~

ドラマ

愛が損なわれた人生、そこでもがく人たち。そして静かで哀切な音楽。

私が一番好きな小説家、レイモンド・カーヴァーの世界を強く思い出させる映画でした。カーヴァー好きの方はぜひ、絶対にハマります。
(この映画はロシアの国民的作家、チェーホフの作品を基にしているらしいので納得ですね。カーヴァーはチェーホフに強く影響を受けていることで有名です)
あまりメジャーな作品じゃないのに、気づけばこれで観るのは4回目。

大きな起伏があるわけではなく、複数のストーリーが淡々とそれぞれのラストへ進んでいきます。

映画を観ているというより、午後のカフェに座って、流れてくるジャズをぼんやりと聴いているような。
そして心に、温かくしっとりと濡れたような余韻を残します。
この不思議な映画体験を、ぜひあなたにも。

というわけで個人的に大好きな映画「Rainレイン」のネタバレ感想、いきます。

鑑賞のまえに

2003年製作/アメリカ

時間:98分

監督:マイケル・メレディス

出演:ピーター・フォーク、ジェイソン・パトリック、他

・決してハッピーエンドではないので、映画を観て元気を出したいという方には不向き

・都会の雨の風景と、物静かなジャズの音色が抒情的な雰囲気を作り出しています。

・ストーリーはごくシンプル、いくつかの人生の決定的な場面を描いたスケッチ的作品です

感想

この映画で描かれるアメリカの大都会は、一種の辺境の地です。
埃が吹き寄せられていく、薄暗い部屋の隅のような場所。そこで生きる人たちは誰もが行き詰まりを感じていて、どうすればそこから抜け出せるか分からずに苦しんでいます。

そして彼らのほとんどが「自分はこの場所でこんなに苦しんでいる。誰かそれに気づいてほしい。この痛みを分かってほしい」と叫んでいるのです。

最もわかりやすいのが、息子を亡くしたばかりのタクシー運転手。一見していつもどおりに仕事をしているように見えますが、彼はタクシーに乗せた客に「実は息子が死んだばかりなんです…」と、誰彼かまわず話さずにいられません

当然、客は戸惑って言葉に詰まります。たった数分乗っているだけのタクシーで、唐突にそんなことを打ち明けられても困る、という表情。ある人は思いやりのある態度を見せようとしますが、運転手がその優しさにすがって自分の色々な思いを打ち明けようとすると、相手はそれを遮ります。「実は隣にいる妹も夫を亡くしたんだ。申し訳ないけれど、そういう話題は控えてもらえないだろうか」

またある人は「何てことなの!こんなことがないように気をつけていたのに!」と、タクシーの中で運転手から不幸な話を聞かされたことこそ我が身の不幸だ!と言わんばかりに喚きだします。

つまり、この辺境の地では誰もが自分のことで手一杯で、人を救う余裕なんてないのです。ほんの少しの慰めがほしかった運転手は、それすらも拒絶されて、また雨の中タクシーで街を彷徨うことになります。

タイル職人と、彼が未払いの代金を請求している未亡人とのやり取りも、まさにこの構図。どちらもが愛する人を失ったばかりで「俺(私)は辛いんだ!だからちょっとは思いやってくれてもいいだろう!」と互いを非難する。けれどそれは鏡の中の自分に向かって喚いているのと同じことでしょう。

妻と一緒に高級レストランで食事をする男は、タクシー運転手と対局の位置にいるように思えます。健康で裕福で、家族や友人に囲まれ、社会的地位のある仕事をして満たされている。彼自身が妻に語っています。自分は幸せだ。その恵まれた境遇に感謝しないと、と。

さて、そのディナーの帰り道、彼は妻と寄り添って雨の街を歩いています。そこへ1人のホームレスがやってきて、何か食べ物を恵んでほしいと頼むのです。レストランで「自分は恵まれている」と語っていた男は、自分とは違って辛い境遇にあるホームレスに同情し、食べ物を分けてやろうとします。

彼と妻は、自宅で待っている妻の妹へのお土産として料理をテイクアウトしていました。せめてその中のデザートをホームレスにやろうと妻に言う男。しかし、妻は憤然とし表情でそれを拒否します
「嫌よ!妹の食事をホームレスにあげるなんて!」
男は妻のこの態度にショックを受け、この一連の出来事がきっかけで夫婦の間には気まずい空気が流れます。

男は多分、あの状況で妻も自分と同じように感じてくれて、自分と一緒に善い行いをしてくれると期待したのでしょう。けれど、現実は違いました。男が愛して人生を共にしてきた女性は、実は心の冷たい人間で、ホームレスと関わりを持つことすら我慢できないという態度を取ったのです。妹の食事と言いますが、当の妹は別にそれを有難がってもいないのに。

これはあくまで男の主観で、私はこの妻が100%悪人だとも思いません。ホームレスに道でいきなり話しかけられてお金や食べ物をあげることが絶対の正解かどうかは、私には分からないので。

重要なのは、自分の人生は完璧だと感じていたのに、あるとき突然「ひょっとして自分は間違った相手と結婚してしまったのかもしれない」という考えに男が憑りつかれてしまったということです。

食べ物の嗜好や好きなTV番組が違った…くらいなら、笑ってやり過ごせるのでしょうが、パートナーのモラルに疑いを持ってしまうというのは、かなり辛いものがあります。それこそレイモンド・カーヴァーの「足元に流れる深い川」の夫婦のように、傍目には分からなくても、それが取り返しのつかない断絶となってしまうでしょう。

そして男の苦しみは、ただ妻のモラルの欠如という問題だけでなく、自分自身への疑いでもありました。

結局のところ男は自分の妻を説得することもできず、飢えたホームレスが土砂降りの雨の中で震えているのに、何もできずにその場を立ち去ったのです。その後、表面的には何もなかったかのような顔で友人たちと豪華な食卓を囲んでいるとき、彼はホームレスのことを思い出していました。

ホームレスが飢えているのを知りながら、彼と妻は今この時も贅沢なものを食べ、平気な顔で友人たちと談笑している。

彼自身が“恵まれた幸せな境遇”だと思っていたのは表面だけの輝きで、内側は偽善に満ちて薄っぺらい人生でした。そこは人間的な愛が決定的に損なわれてしまった世界で、彼だけがその世界の真の姿に気づいています

気づけば袋小路に入り込んでしまった男を救ってくれるものは、何もありません。「誰かこの苦しみを分かってほしい」と願っても、周囲から見れば彼は“十分に恵まれた人間”なのですから。

運転手、裕福な男、タイル職人。この3人の苦しみも十分に理解できますが、この映画にはさらに深い絶望の淵に追いやられている人々が登場します。

そのうちの1人は、老いて落ちぶれた父親。彼は貧しい暮らしの中で、立派に成長した息子と望むような関係を築くことができず苦しんでいます。

普通の父親がするように、息子に接したい。明るく冗談を交わし、包容力のある父親を演じようとしますが、それが芝居に過ぎないことは父にも息子にもよく分かっています。口先では調子の良いことをぺラペラ喋っているけれど、どれもこれもすべて嘘なのです。彼の口から語られる真実といえば、ただ一つ。困っているから、金を貸してもらえないだろうか。それだけです。

それでも息子は辛抱強く、父親の薄っぺらい嘘に微笑みを浮かべながら耳を傾けています。何をまくし立てていようと、最後には必ず「金を貸してくれ」という言葉に行き着くと分かっていて、それでも父親が父親らしく振舞おうとする哀しい芝居に付き合ってやります。

貸してやったその金も、すぐに酒に変わってしまって、ますます父親が落ちぶれていくだけだと知っていても、です。

息子は父親を愛しているのでしょう。しかし父親のほうは自分が息子を愛しているのかどうかも、もはや分からなくなっています。金をせびらなくてはならない相手、虚勢を張らなくてはならない相手、内心で自分のことを憐れんでいる相手。そんな息子を父親として「愛している」と、どうして堂々と胸を張って言うことができるでしょうか

彼は同じように貧しい老人の仲間たちと、自分たちの子供のことを「恩知らず」だと言って盛り上がっていたようです。そのため、父親がコミュニティに息子を紹介したときは気まずい空気が流れました。彼の生活には何よりも貧しいもの同士の連帯が必要で、そこでは仲間のご機嫌をとるために、息子が不快になるようなことを捲し立てています。その哀れな有り様に、息子は耐えかねて席を立つのです。

ここにもまた、大切な愛が損なわれてしまった家族の姿がありました。

そして最も救いから遠い場所にいるのが、麻薬中毒者の母親・テスです。

彼女は母親として不適格であるとみなされたために子供を取りあげられてしまいました。その子の父親である判事が子供を養子として引き取り、彼女は素性を隠してベビーシッターとして彼に雇われています。判事は卑劣な男で、子供を人質にとるような形で、今も彼女に性的関係を強要していました。子供から引き離されることを思うと、男に逆らうことができないテス。

彼女もまた、どうしようもなく行き詰った絶望感に苦しみ、同じように生き疲れた女友達と一緒に麻薬に溺れています。

この映画の原題は「THREE DAYS OF RAIN」。登場人物たちの絶望的な人生の中で、雨が降り続くその3日間がなぜ特別なのかというと、それは「救いはどこにもない」という事実に、まさにそのとき彼らが気づいたからです。

確かレイモンド・カーヴァーのエッセイのどこかで書かれていたと思うのですが、この映画の原作を書いたチェーホフは、“真実に気づく瞬間”の表現が素晴らしいのだとか。思いもしなかった真実。あるいは本当は分かっていたけれど目を背けていた真実。その真実がカーテンを開いたかのように、パッと目の前に現れたとき、その人の生活には確実な変化が訪れることになります

この映画もまた、そのような“人生の変調”を描いた作品なのかなと感じました。

「誰も救ってくれない」。そのことに気づいて、自分から一歩前に進もうとする人もいます。タイル職人と未亡人は、言い争いの一夜が明けたとき1つのベッドに並んで眠っています。目の前にいる相手と自分は同じだということを理解し、互いを救うことを考えたのかもしれません

また裕福な男は義理の妹に結婚生活の破綻を告げ、朝の空を見ながら人生の次のステップについて考えています。

タクシー運転手は深夜のコーヒーショップで、息子の死についてポツポツと語り始め、息子と最後に別れたときのことまで、すべて話し終えることができました。聞いているのは、店のウエイトレスだけ。

正確にいうと彼女からは何のリアクションもなく、運転手の話を聞いているのか、それともただカウンターの中で作業をしているだけなのかは分かりません。しかし運転手も雨の街を走り続け、さまざまな客が後部座席に乗っては降りていくなかで、悟ったのでしょう。誰も自分のことを本当に気にかけている人間などいないのだということを。

だからウエイトレスが耳を傾けていようといまいと、それはどうでもよいのです。ただ自分が最後まで話し終えたい。息子の死について思うことを言葉にできればそれでいいと。タクシーの中では、客が彼に向って一方的に言いたいことを言っていました。それであれば、彼自身が客になれるコーヒーショップでなら、話したいことを好きに話していいのだろうと考えたのかもしれません。

他人は救ってくれないと悟っても、何も変えられない人間もいます。息子との関係がとんだ茶番だと気づいても、きっと孫娘にはこの先も会えないだろうと気づいても、老いた父親は生活を変えることはできません。今日も明日も息子に電話し、これまでと同じように「金を貸してくれ」と頼むのです。

そして最も悲惨な母親・テスは、ソーシャルワーカーとの会話によって「自分の世界にはこれまでも今も、そしてこの先も希望なんてないのだ」と気づきます。けれど、それに気づいたところで子供を人質に取られている限り、状況を打開する手だては何もありません。

追い詰められたテスは、シッターとして子供と2人きりになったときに、愛する我が子の顔に枕を押し付けて窒息死させてしまいます。

哀しいジャズの音色が流れる中、もう1人の登場人物が雨あがりの空の下、この救いのない辺境の土地を出て行こうとしています。知的障害のある鉄道員・デニスは、列車が来ることのない予備の路線で働いていました。しかし浅はかな同僚が仕掛けた罠によって、線路のネジを外したという疑いをかけられてしまいます。

同僚は失業まではすることがないだろうと読んでいたのですが、事態を重く見た本部の人間により、デニスはあっさり解雇されてしまいました。それを知り、気まずさを隠せない同僚。「俺のせいじゃないからな」「お前は犠牲者だ。犠牲者は犠牲になるもんだ」「恨むなら自分を恨んでくれ」と同僚は捲し立てます。

デニスが他の登場人物たちと違うのは、どんなことを言われても、どんな状況に置かれても「わかった」「そうするよ」と不思議な微笑みを浮かべながら、すべてを受け入れるのです

デニスは同僚から陥れられそうになったとき、頭に浮かんだ当然の疑問を口にします。「なんであのネジがロッカーにあったのかな」。けれど、それに対して納得のいく答えが返ってくることはなく、同僚はどうせデニスには自分のやったことが見抜けないだろうとタカをくくって、適当にごまかそうとします。

そんな扱いをされても、デニスは怒ったり絶望したりすることもなく、ただ静かに同僚の言葉を受け入れます。小説「アルジャーノンに花束を」の主人公のように、デニスには他人の疚しい心を感じ取る能力がないからこそ、相手の言動をそのまま受け止めることができるのかもしれません。絶望を呼び込むのは知性。人間の知性は素晴らしいものでありながら、同時に人と人との間に楔を打ち込み、苦しみを深くするものです。

それでも、デニスにもやはり“気づきの瞬間”は訪れます。それは「この場所に別れを告げて、どこか新天地へ行くときがきたんだ」ということ。

デニスは雨に打たれ、忘れ去られた線路を見ながら、こう言っていました。
「いつかここに列車が来たら、俺はそれに乗っていくよ」
デニスは、同僚や本部の人間が、自分にここにいて欲しくないと思っているのだということ感じ取ったのでしょう。ロッカーから発見されたネジや適正テストの答えは謎のままですが、皆が自分にどこかに行って欲しいと思っているのは分かる

じゃあ、ここを出よう。どこか新しい場所に行こう。
とても単純な発想。そこに他人への恨みつらみはなく、立ち上がれないほどの絶望感もありません。純粋だからこそ迷いが生まれることはなく、デニスは雨上がりの明るく輝く空の下、空っぽの線路をたどって真っすぐ歩いていきます。

この映画の中で、デニスのラストだけは希望に満ちていると感じられました。
彼はきっとこの辺境を抜け出して、どこか愛のある場所に辿り着けるはずです

3日間の雨があらゆる虚飾を洗い流し、救いのない現状が露わになりました。
そこから立ち上がろうとする人もいれば、打ちのめされて、より深い淵へと落ちていく人もいます。誰に共感できるかも、人生のどのタイミングでこの映画に出会うかで変わってくるのでしょう。

それぞれのやるせない気持ちに寄り添うような、優しいジャズの音色がいつまでも耳に残ります。雨とジャズ。この2つの色を基調として、都会の人間模様を織りあげていく名作でした。

何度もこの映画を観ていると、まるで自分もこの街に住んでいるような、それぞれの登場人物がごく身近な人たちのように感じてしまいます。独りぼっちで寂しいと感じたとき、またこの街に彼らを訪ねていきたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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