TOP3に入る勢いで好きな映画です。
自分の中で節目の50記事目は、この映画の感想にしようと決めていました。
主演のマシュー・マコノヒーもワイルドでいいんですが、何より物語のテーマが好きなんです。
真実の愛は幻想。でも、その幻想は無価値じゃない、ということ。純粋さを残した主人公の少年が、そんな大人たちの姿を見て成長していくストーリーも最高です。
愛をテーマにした「スタンド・バイ・ミー」のノリで、ぜひ多くの人にこの映画を見て欲しい…ので、できるだけネタバレはせずに、私自身のこの作品への愛を語っていきます。
鑑賞のまえに
2012年製作/アメリカ
時間:130分
監督:ジェフ・ニコルズ
出演:マシュー・マコノヒー、タイ・シェリダン、他
・わりと王道の、少年たちのひと夏の冒険と成長の物語。ハックルベリー・フィンっぽい世界観が最高
・マシュー・マコノヒーが一途に一人の女性を想う姿が泣かせます。
・決してハッピーエンドじゃないのに、余韻は爽やか。そういうドラマを求めている人には超絶おすすめの名作です。
あらすじ
アーカンソー州の川沿いに住む14歳の少年エリスと親友ネックボーン。2人はミシシッピ川の中州で洪水により木の上に引っかかったボートを発見し、秘密基地にしようと考えますが、そのボートには“マッド”という正体不明の男が身を潜めていました。
マッドは賞金稼ぎと警察に追われながら、最愛の女性ジュニパーと再会して逃げるという計画を密かに立てていました。エリスはその不思議な魅力に引き寄せられて彼を助けたいと考え、ネックボーンとともに彼のために食べ物や物資を運び、ボートの修理を手伝うようになりますが…
感想
映画や小説に出てくるような愛って信じてますか?
O・ヘンリーの「賢者の贈り物」みたいな愛です。相手にすべてを捧げ、相手からも捧げられるような愛。そしてその気持ちは死ぬまで決して変わらないという、完璧な愛。
この映画の主人公の少年エリスは、そういう絶対的な愛の存在を信じています。14歳のエリスにとってそれらは、映画や小説の中だけでなく、この世界に確実に存在するもの、存在しなくてはならないものです。
一つには彼が年上の女の子に今まさに恋をしているところだからというのがありますが、彼が“真実の愛”に固執する一番の理由は、彼の両親が離婚の危機にあることでしょう。
自分をこの世に生み出した両親の間の愛が、今まさに消えようとしている。
2人がお金や家といった現実的な問題でいがみ合い、疲れ切った様子は、最初から愛し合っていたこと自体がまるで嘘だったかのようです。離婚率何割とかニュースになって、しんどくなったら別れるのも個人の自由でしょ?みたいな空気がありますけど、子どもを作った以上、そこは自由じゃありません。
子どもたちは親の生き方、日々の姿を見て世の中や人生を学んでいきます。愛についても、それは同じ。いつもニコニコ仲良くしてろとはいいませんが、自分たちが「愛」をどう扱うかで、子どもたちの人生観も決まると思っておいたほうがいいでしょう。
まぁ、こういう個人主義の時代なので、大人たちは互いに捧げ合うという関係の素晴らしさを忘れ、結果として「真実の愛とは何か」という問いかけすら滅びかかっています。
美や愛や真実といった価値観を信じるのか、それとも今どきの冷笑文化に落ちていくのか。そのギリギリのところで何とか踏ん張っているのがエリスです。
対する親友ネックボーンは、愛という概念に距離を置いて見ているのが分かります。これは一緒に暮らしている彼の叔父の影響で、彼らの家に女性の出入りは絶えませんが、あまり長い関係を続けられる相手はいないよう。どの女性にも気楽で楽しい付き合いを求めるネックボーンの叔父に、不満そうな女性は「私はお姫様なのよ!」と怒り狂います。それを見て、また楽しそうに笑う叔父。ネックボーンもまた、そんな大人たちの様子から自分なりの「愛」のイメージを作り上げていったのでしょう。
否応なしに世の中と男女の現実を受け入れていく少年時代。そんなエリスとネックボーンの前に現れたのが、不思議な大人・マッドです。
人を殺して指名手配されているというマッドは、誰がどう考えても危険な存在なのですが、エリスは彼が「すべては愛する女性のためにやったことだ」と言うのを聞いて彼に肩入れするようになります。悪い男に騙されて酷い目に遭った彼女を、男らしく救い出したというマッド。それはまさにエリスが信じたいと思う愛、騎士とプリンセスの真実の愛のように思えました。
マッドは小島に隠れて壊れたボートを修理し、愛するジュニパーと一緒に逃げる計画を持っていて、エリスはそれを手助けすると約束します。ボートが直ったときにはマッドが持っている拳銃をもらうという取引で、同じく彼を手伝うことにしたネックボーン。叔父との生活で男女の現実を知っている彼は、エリスとは違ってジュニパーのことを語るマッドの様子を疑い深そうに見ていました。
そう、ネックボーンが疑ったとおり、マッドとジュニパーの関係は、現実にはエリスが信じたようなお伽話の愛とは違います。
ジュニパーは確かに美人ですが、その私生活の乱れはどうしようもない女性のよう。次から次へと性の悪い男を好きになり、案の定トラブルに巻き込まれてはマッドを呼び出して事なきを得ていたのです。そしてまた性懲りもなく次の男へと渡り歩いていく。誰がどう見てもジュニパーの苦境は自業自得、マッドは何でも言うことを聞く都合の良い男という立ち位置でした。
エリスに「そんなに愛しているなら、なぜ結婚しないの?」と聞かれたときの、マッドの苦い表情と「結婚に結びつかない愛もある」という返答がすべてを物語っています。彼が死ぬほどそれを望んでいたとしても、叶わないこと。なぜならジュニパーは彼と結婚したいとは全然思っていないのですから。
「自分と彼女は特別な関係のはず」
苦しいときにもマッドを支え、突き動かしてきたのはその幻想です。彼自身がそれをどこまで信じていたのかは分かりませんが、エリスのように耳を傾けてくれる人がいるたびに情熱を込めて語ってきたことで、自分でも嘘だとは思えなくなっていたのかもしれません。
その有様は、まさにドン・キホーテそのもの。
この映画は、実は現代に蘇ったドン・キホーテの物語です。
何度も繰り返し騎士道物語を読むうちに、自分自身も騎士なのだと思い込んでしまったドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ。本名はアロンソ・キハーノ、ただの田舎の郷士に過ぎなかった初老の男が、空想の中で騎士としての使命をでっち上げて遍歴の旅に出るという物語。
周りの人たちは皆、頭のおかしいアロンソにあきれ返って手を焼きます。実はマッドもそれとまったく同じ。彼から聞かされた空想を信じ込んだエリスには真実の愛の物語に見えていたでしょう。けれど、ほとんどの人間から見れば、ジュニパーとマッドの2人は身持ちが悪い女とそれに振り回される情けない男の、ただの腐れ縁です。
その真実をはっきりとエリスに告げたのは、マッドが子どもの頃から面倒を見てきた父親代わりのトムでした。助けを求めるマッドに対して、まだあの女と関わっていたのか、いい加減に目を覚ませと吐き捨てるトム。
もうこれ以上自分を頼るなと釘を刺して去っていったトムは、それまでマッドの幻想に付き合わされて散々徒労に終わってきたという過去があったのでしょう。かつての自分のようにマッドに肩入れをして奔走するエリスに、はっきりと現実を教えて忠告しようとします。けれど信じるに足る愛があると思っていたいエリスは、トムのことを「本当の愛を知らない、悲しい年寄りだ」と非難して、その場を去りました。
なぜ大人たちは誰もかれもが愛を否定するのか。
なぜトムのように言葉で、自分の両親のように行動で、真実の愛なんてないのだと伝えてくるのか。
一生懸命その疑念を振り払おうとするエリスに対して、ここから次々と厳しい現実が襲い掛かってくることになります。
一つは自分が愛を捧げるに足るプリンセス、恋人だと信じていたメイ・パールにあっさりと捨てられてしまったこと。恋に落ちたと思っていたのはエリスだけで、彼女はちょっとその場の雰囲気に合わせてそれっぽく振舞ったに過ぎず、彼のことを大して好きでもなかったことが分かりました。
両親の離婚もいよいよ決定的になり、父親はエリスの前で平気で母親のことを罵っています。あらゆる愛に裏切られ続けるエリスは、それでも「マッドとジュニパーだけは…」と、彼らの逃亡を手助けすることにすべてを賭けていました。
そこで突きつけられる、ジュニパーの裏切り。彼女は、マッドが自分のために指名手配犯になり、エリスもネックボーンも危険をおかして彼を手助けしていると知っていながら、土壇場で逃げ出しました。マッドのことを「嘘つきで頼りにならない」と評していた彼女は、おそらく「こんな計画うまくいくはずがない」という不安に負けて、とりあえずエリスたちが迎えにきたときに行方をくらましておくという行動に出ます。
わりとあっさり居場所はバレて、バーで男と抱き合っているところをエリスに見られてしまうのですが、そういう計画性の無さや投げやりな行動が、何よりもジュニパーの性格を物語っているような気がします。とりあえず怖いことやしんどいことから逃げる。あとで困ったら、また誰かに助けを求めればいい。
エリスもこのとき、はっきりとマッドが崇めているプリンセスのリアルな姿を見ることになります。
愛って何なんだ。こんな女たちのために戦うことの何が尊いんだ、とショックを受けるエリス。無理もありません。実際、彼女たち自身には命がけで守ってやるほどの価値は無いのでしょうから。
その知らせを聞いて、さすがにもう彼女との関係を続けることは不可能だと悟ったマッド。「これで終わりだ」と書いた手紙を、エリスに託します。ジュニパーにマッドからの別れの手紙を届けたあと、彼は自分を騙したと言って、島に戻ってマッドを責めました。ひどい結末によって夢から覚めてしまったエリスも可哀そうですが、私はこのとき責められたマッドの気持ちを想像しても胸が痛くなります。
愛の幻想とは物語ることで消えずにいられるものです。マッドは小島に一人隠れていたときにも、誰も聞き手が無くても自分自身にジュニパーとの物語を語り聞かせていたのかもしれませんが、エリスが熱心に聞いてくれることがきっと嬉しかったはず。誰かの心に物語として生きることで、自分でももう半分は信じられないでいるような幻想が、もう一度息づくのを感じていたでしょう。
ジュニパーの裏切りによって、そのエリスの中からも彼らの愛の物語は消えてしまいました。後に残されたのは、彼が人を殺して一生逃亡生活を送らなくてはならなくなったという事実だけです。
ではマッドがジュニパーを愛したことはまったくの無意味だったのでしょうか。ドン・キホーテのような幻想は、マッドの人生をめちゃくちゃにしてエリスを傷つけただけだったでしょうか。
私はここからが、この映画が描く「愛」の素晴らしいところだと思いました。
ショックを受けて森へ飛び込んだエリスは、足を滑らせて水場に転落し、運悪く沼マムシに噛まれてしまいます。すぐに治療しなくては命がないという状況で、指名手配中のマッドは何のためらいもなくエリスを抱えて街の病院に向かい、自分の顔を晒して彼を救ったのです。
追い詰められたマッドは、ジュニパーがついて来ないまま、一人ボートで逃げることにしました。いよいよ出発というとき、マッドは夜中にエリスの部屋を訪ねて別れを告げます。これまで2人を繋いでいた、美しい愛の物語という幻想が消え去った今、エリスが向き合ったのは何もかも失った素顔のマッドでした。
こんな惨めな状況で、マッドはそれでもジュニパーを愛したことを後悔はしていませんでした。大切な幼馴染の女性、自分の命の恩人。ジュニパーと自分が特別な関係にあるのだという夢からは覚めたけれど、マッドにとって彼女が最愛の女性であることは今も変わらなかったのです。
私が個人的に好きだったのは、ジュニパーに手紙で別れを告げて、いよいよここを出て二度と彼女とも会えなくなるだろうというとき、マッドが彼女の姿を一目見ようとモーテルから離れた駐車場に立つシーンです。あんなに遠く離れた場所では彼女に気づいてもらえるという期待も無かったでしょうが、それでも最後に彼女を見て、記憶に刻み付けておきたかった。そんなマッドの気持ちがにじみ出ているシーンでした。
モーテルの廊下に出て物思いにふけっていたジュニパーは、偶然彼の姿に気づきます。無言で片手をあげ、あまりにも簡素な別れを交わす2人。でもこの瞬間がマッドにとってどれだけ大切なものだったか。
愛とは、主観的なもの。自分が相手を愛する、それゆえに「愛」が存在するのです。
相手が自分と同じように愛してくれているか、相手には愛するだけの価値があるのか。そういうことは、本来「真実の愛」かどうかとは関係がないんですね。
自分自身の“想う力”がどれだけ強いか。それがすべてです。
空想、幻想、ただの願望。結局のところ、それが愛の正体なのかもしれませんが、意味がないとは決して言い切れません。
たとえば「ドン・キホーテ」のアロンソは、風車を巨人と思い込んで突っ込んでいく狂った年寄りです。周りの人間は、彼の頭がおかしいことをちゃんと分かっています。
でも「ドン・キホーテ」を読んでいると、不思議と周りが彼に感化され、彼の世界を壊さないように振舞うようになるのを見ることができます。彼の圧倒的な想像力が、人々を圧倒し、少しずつ影響を与えていくのです。
そしてアロンソの空想力の素晴らしいところがもう一つ。彼は世間の人から見ればごくつまらない存在にも、物語の力で美しい価値を与えることができます。例えば彼が崇拝するドゥルシネーア姫とは、実際には彼の隣村に住んでいる普通の百姓娘です。
でもアロンソの目から見た彼女は、この世で一番美しい貴婦人。
これって、マッドとジュニパーの関係にも少し似ていると思いませんか?
ジュニパーも田舎ではちょっと綺麗なほうかもしれないけれど、すれてるし、生活は荒んでるし、男癖は悪いし…。正直そんなに崇拝するほど特別な女性には見えないんですよね。(少なくとも私には、ですが)
でもマッドにとっては世界で一番美しい人。
一般的には「どうしようもない女」が、マッドの愛によって新しい姿を与えられ、彼の物語の中で輝く。
他の存在に新たな美しさや価値を与えるって、すごい力だと思うんです。
ジュニパーもそれを感じ取っていたからこそ、マッドから別れを切り出されたときに泣いてしまったんでしょうね。彼女は彼の夢見がちなところ、嘘つきなところを馬鹿にしていましたが、そんな彼の幻想の中で生きていたからこそ、彼女は自分自身を「特別な存在だ」と思えたのです。彼がそばにいて自分たちの物語を語ってくれることは、彼女にとってとても大切なことだったはずです。そういう意味で、彼女もマッドをある意味愛していたといえるかもしれません。少なくとも彼のことを必要はしていたでしょう。
結局のところ、2人はずっと一緒にいることは叶わず、マッドはジュニパーのそばを離れていきますが、映画のラストでマッドが見せる笑顔には、幻想を壊されて打ちのめされたような惨めさはまったく見えませんでした。(「ドン・キホーテ」では最後にアロンソはすべての夢から覚めて、急に老け込んでしまうんですが…)
その表情には、自分の物語を信じて愛し抜いたからこそ得られる幸福感さえ浮かんでいます。
そして彼は自分のそんな生き方をエリスに伝えることもできました。
結局、エリスの両親は離婚してしまい、彼は父親と離れて母と町で暮らすことになります。一番恐れた結果になったはずなのに、新しい家の近くで1人の綺麗な少女の姿を認めて微笑むエリス。それを見ると、彼が「愛」を信じる力を失っていないことが分かるでしょう。
周りに馬鹿にされても、ただの幻想だと言われても、ジュニパーが想いに応えてくれなくても、それでもジュニパーを愛し抜いたマッドの姿を、心に強く刻み付けたエリス。真実の愛とは自分自身の想う力によって作られるものだという考えが、きっとこれからの彼の人生を支えてくれるでしょう。
大人たちの姿から、ちょっと世の中の現実を知って成長していくのが青春映画の定番。ただ、この「MUD」という映画は、現実の苦さや行き詰るような感覚だけではなくて、「それでも世界は続いていく」という明るさが感じられるところが好きです。
少し(?)ネタバレしてしまいましたが、この映画では他にもエリスの初恋のワクワク感とか、彼と両親の家族愛とか、マッドを追い詰める悪役の存在感とか、少年たちがボートで川を進んでいく冒険の雰囲気とか、見どころが沢山あります。
マーク・トウェインの世界を地でいく冒険映画として、ぜひ気軽に鑑賞してみてください!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました♪
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