とても抒情性があって美しい邦題ですが、実は原題はまったく正反対なイメージの「Demolition(破壊)」なんですね。
この場合の「破壊」は、映画「ファイト・クラブ」でブラット・ピットがやっているアレです。今のクソみたいな人生を徹底的に破壊して、新しいものを創造する。
ブラピがやってるのはほぼ破壊のみで、映画のテイストもだいぶ違いますが……
描き方が違うだけで、「ファイト・クラブ」と「雨の日は~」は、ほとんど同じテーマを扱っていると思います。
社会的に成功を得た男性が、自分を取り巻く無機質な世界を破壊して、本来の生々しい感情を取り戻すまでの物語。人生の勝ち負けに執着して、がむしゃらに走り続けることを強いられるアメリカ社会では、非常に共感されやすいテーマなのかもしれません。
「雨の日は~」では再生にいたるまでの道筋も丁寧に描かれていて、救いのあるラストになっています。
20代前半までの人生始まったばかりの年代が見ても、多分ワケが分からないと思いますけどね。R-30指定です。人生走り続けた先で「ここは一体どこですか?」っていう状態になったら、鑑賞してみてください。
大人だからこそ分かる、良い映画です。
鑑賞のまえに
2015年製作/アメリカ
時間:101分
監督:ジャン=マルク・バレ
出演:ジェイク・ギレンホール、ナオミ・ワッツ、他
・感情をすり減らしてしまった中年男性が、自分の心を取り戻す再生のストーリー
・主人公の感情の表し方がかなりトリッキーなので、流し見してるだけだと意味不明
・けれど主人公の心の動きをじっくり追っていくと、その詩的なラストに涙します。
・個人的には「ブロークバック・マウンテン」の次に大好きなジェイク・ギレンホールです
感想
感情はときに厄介なパートナーです。
幸せなことばかり感じ取れたらよいのですが、大人になると屈辱や敗北感を感じるシーンを増えていきます。そんなときは10代・20代の頃のように全身全霊でぶつかって“今”を感じるのではなく、心のスイッチを切ってしまったほうが生きやすいです。
多分、主人公のデイヴィスはそうやって感情を脇に追いやることで、一定の成功を得てきたのでしょう。妻の実家は資産家、デイヴィス自身も義父の会社で雇われていることから、何となく息苦しい環境だったんだろうなというのが伝わります。
妻や義理の両親、同僚たちが何を考えているのかとか、そういうことはあまり考えないほうがきっと楽です。「ファイト・クラブ」の主人公のように、ブランドものや最新の家電といった「物」で人生を埋め尽くして、生々しい感情とは距離を置くほうが気楽。
そうやって日々を生きていたデイヴィスに、あるとき突然“妻の死”という悲劇が降りかかってくる。すると自分が、もはやごく当たり前に妻の死を悲しんだり、泣いたりできない人間になってしまっている、ということに気づきます。
そのことに戸惑ったデイヴィスが、試行錯誤をしながら“正しく妻の死を悲しむ”までの道のりを描いたのが、この映画です。
デイヴィスは決して何も感じていないわけではないのです。その証拠に、妻の死を知らされた直後に、自販機の故障に対して異常な苛立ちを見せています。私も近しい人を亡くしたことがありますが、悲しんで落ち込むよりも、怒りでエネルギーが湧いてくるタイプでした。人によって違いはあると思いますが、怒りというのも、こういった状況での通常の反応の1つだと思います。
怒りのエネルギーは、完全に打ちのめされてしまわないよう、心を守ることには役立ちます。ですが、心が救われるには、やはり涙を流して悲しむ必要があるのではないでしょうか。
デイヴィスは思い通りにならない感情を持て余し、エネルギーの向くままに突拍子もない行動を取るようになりました。その取っ掛かりが、自販機の会社への謎の長文クレーム。といっても自販機への文句もそこそこに、手紙の大半は妻を失ったことについての自分語りです。
普通の人なら、親しい友人や家族に耳を傾けてもらって、自分の気持ちを吐き出してもらおうとするでしょう。けれど成功者としてのプライドで固められてしまって、周囲の人間と打ち解けられなくなってしまったデイヴィスには、こんなデリケートな感情を見せることができる相手がいません。そのために、赤の他人である自販機会社の苦情係にすがりついてしまうのです。
それって、すごく孤独ですよね。でも本当に辛くて悲しいとき、デイヴィスの気持ちが分かるという人も実は多いのではないでしょうか?現代人はおしゃれなライフスタイルで理想を固めてしまっていて、負の感情をむき出しにした自分の姿をさらけ出すことができません。結果的にSNSやオンラインゲームの仲間など、“顔が見えない相手”だけに甘えられるという歪な状況に陥ってしまいます。
多分デイヴィスとカレンが接近していったときの気持ちも、それに近いものだったのでしょう。お互いに自分とはまったく違う世界に属している相手。だから素を見せられる。
カレンはカレンで、思春期の息子のことで悩みを抱えていました。息子のクリスがゲイだということは薄々分かっている。けれど息子自身の口からはっきり聞かされてはいないし、同性愛者である息子を社会の冷たさから母として守ることができるのか、漠然とした不安だけが重くのしかかっています。そもそも彼女自身もドラッグに頼らずに日々を過ごすこともできない状態。何とかしなきゃと思いつつ、生活していくだけで精一杯という毎日です。
そんな中で出会ったデイヴィスは、裕福ではあるけれど、奥さんを亡くしたことで不審な言動を繰り返していて、自分よりも不幸せに見えました。デイヴィスを助けようとするカレンの態度の裏側には、自分より不安定な人間を見て安心したいという人間的な動機が隠れていることは見逃せません。
まぁ、もしかするとデイヴィスのほうも、明らかに自分よりも貧しくて社会的地位が低いカレンだったからこそ、安心して自由に振る舞っていたという可能性もあります。人間は悲しみに沈んでいるときほど、身勝手な本性が出るものですし…。
感情が正しく機能していない者同士が寄り添いあっても、相手を心から愛するエネルギーは湧いてはこないでしょう。それが、一見したところはロマンティックな巡り合わせを経ても、デイヴィスとカレンの関係が結局は進展しなかった原因なのかもしれません。
それでも取り繕わずに自分をさらけ出せる相手を得たことで、電車を緊急停車させるなどしていたデイヴィスも、暴走する“怒り”のエネルギーの操縦方法を身に付けていきます。彼は身の周りのものを次から次へと徹底的に分解していきました。故障の原因を探るには、まずそれを分解してみること。そんな義父の言葉に取りつかれたように、自宅でも職場でも目についた電化製品をバラバラにしてしまうので、周囲は怯えたような目でデイヴィスを見ています。
これがまさに「Demolition(破壊)」の始まり。彼はまるで無機質な生活を埋め尽くしている物たちを分解することで、どこかに埋もれてしまった自分自身の感情を見つけ出そうとしているかのようです。
そんな彼の破壊衝動を、無意識のうちに回復の方向へと導いていくのが、カレンの息子・クリスの存在です。カレンとの言わば傷のなめ合いのような関係とは違い、デイヴィスはまるで父親や年の離れた兄のようにクリスに接しています。言葉遣いやセクシュアリティの問題について悩めるティーンエイジャーのクリスに助言するうちに、デイヴィスは少しずつ自信と落ち着きを取り戻していきました。
これこそが、同じ破壊がテーマであっても「ファイト・クラブ」には無かった要素です。教え導いてやらなくてはならない相手、守るべき相手。これまでずっと、手本にできるような大人が身近にいなかったクリスは、期待を込めた目でデイヴィスを見ています。
まぁ、自宅を重機で破壊したり、防弾チョッキを着て子供に自分を撃たせたりと、世間一般的な認識ではデイヴィスが断トツでイカレてるわけですが。そういうことではなくて、クリスは真正面から率直に自分と向き合ってくれる大人を求めていたんだと思います。その点で、取り繕うことをやめたデイヴィスはまさに最良のパートナーでした。
デイヴィスとクリスが、デイヴィスの自宅で壁や家電やインテリアを楽しそうに破壊していくシーンはこの映画の見所の1つです。スタイリッシュなガラステーブルをたたき割り、高そうな大型テレビにハンマーを投げつけ、すべての窓を粉々にする。クリスと一緒にどこかおどけた様子で暴れまくるデイヴィスからは、これまでの切羽詰まった雰囲気とは違って、どこか明るさが感じられました。
悲しみに至るまでの彼の長い旅が、いよいよ終わりに近づいたことを予感させます。
その後、これまでカレンとクリスの暮らしに入り込むような形で、自分自身の問題、特に死んだ妻との関係に向き合うことを避けてきたデイヴィスですが、自宅で胎児のエコー写真を見つけたことによって妻の妊娠を知ります。そしてそのことを義理の両親に問い詰めると、「妊娠を知らせなかったのは、あなたの子どもじゃなかったからよ」という衝撃の答えが…。
デイヴィスの妻は外で恋人を作っていて、その相手の子を妊娠し、ひっそりと中絶していました。そしてデイヴィスはそれらのことを何一つ知らなかったのです。
彼ら夫婦の心は、そんなにも遠く離れてしまっていて、そしてもう一度昔のように心を寄せ合うこともなく、妻は逝ってしまいました。失った時間はもう二度と取り戻せません。
デイヴィスは妻の墓参りの後に車に戻ってきて、運転席の日除けのところに挟まれていた妻からのメモを発見します。「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」。雨の日には日除けは必要がないから使わない、晴れた日だけその存在を有難く思う、というような他愛無い言葉です。感情が死んでいたデイヴィスの雨の日々には、妻からのこんなユーモアのあるメモも目には入りませんでした。そしてやっと人間らしい心を取り戻したとき、妻が自分に歩み寄ろうとしていたのだと気づいても、もうそこに妻の姿はありません。
デイヴィスは自分が妻を愛していたこと、妻から愛されていたこと、そしてその愛を永遠に失ってしまったことを理解し、車の中で泣き崩れました。長い長い時間をかけて届いた、悲しみという手紙。しかし、それによってデイヴィスの心は息を吹き返すことができたのです。
破壊と再生を経て、デイヴィスは人生を取り戻しました。妻の思い出の記念として、子ども達に愛されたメリーゴーランドを復活させたデイヴィス。そのアイデアが受け入れられ、義理の両親との関係も修復できたようです。メリーゴーランドで楽しそうに遊ぶ子ども達の姿を見ることで、デイヴィスも妻との思い出をいつでも心に蘇らせることができるようになりました。
そして映画のラストシーンは、子どもの頃に何よりも熱望した“駆けっこで1位になってゴールすること”を成し遂げて、少年のようにはしゃぐデイヴィスの笑顔で終わっています。生の感情を取り戻したことで、人生で本当に価値のあるものを精一杯味わえるようになったのでしょう。とても幸せに満ちたラストでした。
最後にクリスがデイヴィスにある“贈り物”をしていましたが、私の想像では彼ら親子は今後デイヴィスとほとんど関わることがないだろうと思います。カレンは一度はクリスを失いそうになったことで母親としての覚悟を決めた、という描写がありましたから、これからは親子2人で支え合って生きていき、デイヴィスを必要とはしないでしょう。
デイヴィスとカレンとクリスは、彼らが最も苦しんでいたときに出会い、その短い時間での交流がお互いの人生に良い影響を与えて、それぞれが立ち直ればまた離れていく。そういった類の縁だったのだと思います。
あるとき突然フラッと現れた人が、自分の人生を大きく変えて去っていく。そんな奇跡を描いた物語として観ても良いですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました♪
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