最高でした。
いや、音楽のことは、ましてジャズのことなんて全然分かりません。チャーリー・パーカーの名前も、この映画で初めて知りました。
でもこの映画では、音楽だろうとスポーツだろうとゲームだろうと、とにかく何を志しているかに関わらず、若いときに到達したい一つの高みが描かれています。
もう20回は観てるな。仕事で失敗したときや、ここが頑張りどころというときには、部屋でこの映画を流すようにしています。
どん底の気分のときはアンドリューのドラムを聴くか、「ジョジョの奇妙な冒険」のゴキブリを払いのけてパンを食べる空条徐倫のシーンを読むこと。
「逆にもっと強くなってやるッ!」
というわけでネタバレ感想いきます。
鑑賞のまえに
2014年製作/アメリカ
時間:107分
監督:デイミアン・チャゼル
出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ
・パワハラにトラウマがある人は鑑賞注意、文字どおり血を流すほど追い込まれるシーンがリアル
・私はよく分かりませんが、生粋のジャズ好きの監督作品なので音楽もハイレベル(らしい)
・緊張と挫折の後に待ち受ける、爽快なラストがいい!アップテンポなジャズの魅力に呑み込まれる、圧巻の14分間です
感想
私はジャズについてまったく知らないので、この映画を音楽の点から語ることができません。でもドラムになんか触ったことがなく、どんな分野であってもアンドリューの十分の一も才能や努力がない私にも、心に深く突き刺さるテーマ性があります。
それは、“権威の否定”。
かっこつけずに、もっと分かりやすい台詞に置き換えるなら「他人は、気にするな!(「バチェロレッテ!あの子が結婚するなんて」のキルスティン・ダンストの台詞)」。
音楽でもスポーツでも仕事でも、何か頑張って打ち込んでいることがあれば「自分の才能や努力を他人から認めてほしい」という気持ちって絶対ありますよね。承認欲求っていうんでしょうか、「すごいね、才能あるね、頑張ってるね」と言ってもらえないと頑張れない。人間って、そういう弱い生き物です。
特に嬉しいのが、その世界で権威とされている人からの評価。若いうちは誰かに憧れて、その人に認めてほしくて、ただその一心で頑張ってしまうものです。
ただし、その権威に盲目的に従うことは、ときに悲劇を生みます。
そう……相手がクソ野郎だったときにね。
この映画の主人公アンドリューが「この人に認めてほしい!」と思った相手は、アンドリューが通うアメリカ屈指の音楽学校・シェイファー音楽院の教師フレッチャーです。業界の伝説的存在で、すべての生徒が彼のジャズバンドに加えてもらえることを願ってやまないカリスマ。
そんなフレッチャーが自分に与えられた使命と信じているのが、“第二のチャーリー・パーカーを生むこと”。ジャズ界の伝説、チャーリー・パーカー通称“バード”は、先輩奏者にこてんぱんにこき下ろされた悔しさをバネにして、猛練習の末に一流のジャズ奏者となりました。フレッチャーはその先輩奏者こそが天才を生んだのだと信じて疑わず、自身も同じように生徒たちに厳しくあたります。
…でも何事にも限度というものがあります。
チャーリー・パーカーが「下手くそ」って罵られてシンバルを投げつけられたからって、何の前フリもなくいきなり椅子をぶん投げるのはどうなの?まともに頭にくらったら死ぬやん…。完全に「俺が天才を生む」っていう妄想に囚われて、椅子とか投げちゃう俺かっこいいーに酔っています。
もちろんフレッチャーはただの勘違い人間ではなく、業界で認められるだけの実力を持った人物です。そしてその地位につくまでには、人並みではない努力もしてきているのでしょう。泣く子も黙る、ジャズ界のカリスマ。問題は、一旦そういう権威が与えられてしまうと、本人が方向性を間違えて暴走してしまっても、誰も止めることができないということなのです。
というわけで、フレッチャーは名門音楽学校という閉鎖的な世界で、世間知らずで精神的に未成熟な学生たちの上に暴君として君臨しています。ただ、それはあくまでも学校の外側からの客観的な見方で、生徒たちは「フレッチャーに自分の才能を見出してもらえることこそが至上の喜び」と信じて疑いません。
その危うい世界で、不幸にもフレッチャーに目をつけられてしまったアンドリュー。彼はジャズドラマーを志して入学してきたものの、成績はいまいちパッとせず、見るからに風采も上がらない感じです。同級生たちには軽く見られ、私生活ではこの年になっても父親と2人で映画を観るだけが楽しみ。それでも腐ることなく夜遅くまでドラムの練習をする日々。そんなアンドリューが、初めて誰かに自分の才能を認めてもらえれば、舞い上がってしまうのも無理ないことでしょう。
しかも相手は学校にいる誰もが尊敬するフレッチャー。自分が遅くまで練習していたところ、彼にその演奏を偶然聴いてもらったことで見出されるという運命的な展開。
「やっと努力が報われるときがきたんだ!」と思ってしまうのは当然です。
こうしてアンドリューはフレッチャーのバンドに参加を認められ、その瞬間からフレッチャーの狂気の世界にどっぷりとハマってしまうことになります。
学校の精鋭たちが集められたフレッチャーのバンド。その練習の中心となるのは、フレッチャーの指導…とは名ばかりの怒声・暴言・暴力・陰湿な苛めのオンパレードでした。少しでも下手な演奏やミスをしようものなら、相手が泣き出すまで徹底した人格否定の言葉で追い詰めます。「前々からそのデカいケツが目障りだったんだ、さっさと出ていけ!」と太った生徒を教室から追い出したあと、その近くに座っていた生徒に向かって「音がずれていたのは奴じゃない…お前だ」と、ポツリ。
え?何それ?そのやり方でいいの?それでバードが生まれるの?追い出された生徒がバードになるの?実際にミスをした方の生徒がバードになるの?
そのやり方って、多分どっちもバードにならないよね?
本当にあんたにとって太った生徒が目障りだっただけだよね?
つまりフレッチャーは“天才を生む”という大義名分の下、ただやりたい放題やっているだけなわけです。
けれどそれに対して異論を挟む余地などない、張り詰めた空気。怖いですね。多分スポーツの世界とかでもこんな状況が沢山あるんでしょう。「あの人に任せておけば大丈夫」とかいって、未来ある若者たちをジジイ共に丸投げしちゃ駄目なんですよ。
絶対的な権力は、絶対的に腐敗するーby ジョン・アクトン。
業界の権威というのは、ある意味で世襲制の君主とかよりもタチが悪いです。なぜなら、彼らは実際に自分の才能と努力でその地位を勝ち取っているから。周囲も本人も力を振るうことを当然と捉えてしまうからです。
バンドの新メンバー・アンドリューは、さっそくフレッチャーの餌食になります。フレッチャーは最初は不気味なくらいにこやかな笑顔でアンドリューに話しかけ、さも「お前は俺のお気に入りだぞ」と言わんばかりに持ち上げます。しかし演奏が進むにつれ、その表情は次第に険しくなり「違う」「そうじゃない」と繰り返し注意したあとで…いきなりアンドリューに向かって椅子を投げつけました。そして他のメンバー全員が見ている前で容赦ない叱責。というよりも、アンドリューの家族まで侮辱する、聞くに耐えない罵詈雑言を叩きつけます。
フレッチャーは分かっているのです。最初に持ち上げておいて、いきなりどん底に突き落とすやり方が、相手のメンタルに最もダメージが大きいことを。暴言や暴力というものは確実にエスカレートしていく習性があります。とくに立場の弱い相手に対する虐待は、一度決定的な線を踏み越えてしまうと、もう自分では止められなくなります。(そのあたりの表現はドイツのトラウマ映画「es」の得意とするところ)
フレッチャーも最初は「生徒の才能を引き出すためには甘やかしてはいけない」くらいの感覚だったのでしょう。しかし、自分のやり方を誰にも咎められない環境で暴言や暴力がエスカレートしていき、今ではどうやれば相手の心を最も残酷に抉ることができるかを知り、実践せずにはいられなくなっているのです。
フレッチャーがアンドリューに可能性を感じてバンドに引き抜いたのは事実だと思います。実際に、アンドリューがもし平凡なドラマーであれば、フレッチャーのパワハラのターゲットとなって3日も経たずにバンドを去っていたでしょう。
けれど、アンドリューは挫折というものを知らない人間です。天才の共通点は、どれだけ叩きのめされても、どん底から這い上がってくること。
アンドリューはフレッチャーの指導にも歯を食いしばって耐え、猛練習の末についにドラムの主奏者となるチャンスを得ました。その後はまるでフレッチャーのやり方に倣うかのように、先輩や級友を蹴落とし、応援してくれていた恋人も振り払って、ひたすらドラムの演奏にのめり込んでいくアンドリュー。
ずっと人から見下されてきたアンドリューが、やっと業界の権威に近づく希望が見えてきたのです。異常な暴力教師フレッチャーですが、アンドリューにとっては一筋の希望の光。絶対にこのチャンスを逃したくない、今こそ周りの奴らを見返してやりたい、そのためなら何を犠牲にしてもいい。業界の権威というのが、その世界にいる人間に対しては絶対的な力を持っていることがよく分かります。
でも…
権威なんて結局のところ幻想に過ぎないのではないでしょうか?
「やっとフレッチャーに認められた!」と舞い上がっているアンドリューに、外の世界の視点を突き付けるワンシーンがあります。それが親戚との食事会の場面です。
父親の兄弟や従兄弟たちは、シェイファー音楽院にもジャズにも何の興味もありません。彼らはアメリカの若者たちの社会で最も“理想”とされるスポーツの信奉者です。アメフト最高、脳みその中まで筋肉、みたいなタイプですね。彼らにとってはアメリカ最高の音楽学校でトップをとることよりも、誰も知らないような田舎のアメフトチームでクォーターバックでいることのほうが偉いのです。
日本の学校社会しか知らない私にはピンとこないのですが、「ドラマー?何それ音楽オタクかよ。男ならアメフトだろ!」みたいな価値観が、アメリカではわりと普通にあるみたいです。アメリカ社会にもそんなに沢山クォーターバックは必要ないので、卒業したら99%以上の学生が、筋肉以外何もないただの人になっちゃうんですけどね。
でもとりあえず社会に出るまでの間は、スポーツやってるってだけで何か威張ってたりします。これも1つの“権威”ですね。
フレッチャーのバンド入りをステイタスと思っているのはアンドリューと彼の父親だけで、周りの親戚たちはそんな2人を露骨に馬鹿にしてきます。そして自分たちの大したこともないスポーツでの実績を話して、上から目線でヘラヘラ。ここではフレッチャーの権威がまったく通用しないのです。どんなにすごい人でも、その名前を知らない業界の外の人間からすればまったく無価値。
この食事会の席で自分の凄さを全く理解してもらえないアンドリューの悔しさが、彼がどれだけ危ういものに縋っているのかを暗示し、映画の後半の展開を予感させています。
そして運命の日。アンドリューはやっと掴んだ希望の光、ジャズ界の権威フレッチャーと決別することになってしまうのです。
バンドがコンクールに出場するという日の朝、バスの事故から集合に遅刻してしまったアンドリュー。腹を立てたフレッチャーに主奏者を降ろされそうになって激昂したアンドリューは、車を飛ばして会場に向かう途中、衝突事故を起こして大怪我を負います。それでも血を流しながらステージに上がるアンドリュー。鬼気迫る表情でドラムのスティックを握りますが、手に力が入らず、まともにドラムを叩くこともできません。会場はバンドのボロボロの演奏に言葉もなく、気まずく静まり返ってしまいました。
冷酷な表情でアンドリューに「終わったな」と、宣告するフレッチャー。
その顔を見たアンドリューは頭に血が昇ってフレッチャーに掴みかかり、会場で騒ぎを起こしてしまいます。
アンドリューはこの事件でシェイファー音楽院を退学になりますが、その処分を受ける前に、すでに彼の心は折れていました。自分の唯一の強みを失って、生きがいもなく魂が抜けたように日常を送るアンドリュー。
しかし、ある夜街をブラブラ歩いていると、地味なジャズバーでピアノを演奏するフレッチャーの姿を見かけます。実はアンドリューが退学となったあと、フレッチャーも学校を追い出されていたのです。理由は暴言や暴力などの問題的指導。そのせいで鬱病を患い、自殺してしまった卒業生の遺族からの訴えによるものでした。アンドリュー自身、その遺族の代理人からフレッチャーのパワハラについて証言してほしいと頼まれていたのです。
アンドリューとの過去の経緯など無かったかのように、テーブルを挟んで冷静な表情でグラスを傾けるフレッチャー。スタジオ内での暴言や暴力を内部から密告され、学校を追い出されたことに納得はしていない様子ですが、諦めの混じった静かな口調でこう呟きます。「ああしないと生まれないんだ、次のチャーリー・パーカーは」。そこでアンドリューは「でも、あなたのやり方は次のチャーリー・パーカーを潰してしまったかも」と問いかけます。それに対し、鋭い眼光でフレッチャーはこう答えました。「それはあり得ない。何故なら次のチャーリー・パーカーは何があっても決して潰されることはないからだ」。
このときの2人の会話が、映画のラストへと繋がっていくのです。
その後、バーを出た別れ際に、フレッチャーから何気ない口調で今度のジャズフェスティバルでバンドのドラムをやってくれないかと頼まれるアンドリュー。有名なスカウトも若手発掘のために演奏を聴きにくるというイベントで、もう一度ドラマーとして再起のチャンス。ドラムへの未練を捨てきれなかったアンドリューは、その頼みを聞くことにしました。
過去に色々あったけれど、今ではどちらも志半ばで挫折してしまった2人。わだかまりは忘れて、今こそ和解のとき……と、思わせておいて。
ジャズフェスティバル当日、これからいよいよバンドの演奏という緊張の中、ステージの上で心の準備をしているアンドリュー。そこにフレッチャーが近づいてきて、彼の前で立ち止まります。アンドリューはてっきり励ましの言葉をかけてもらえるものと思い、笑顔でフレッチャーを見上げましたが、そこに浮かぶ冷酷な表情を見て凍り付きました。
「俺を甘く見るなよ」
ポカンとするアンドリューに、フレッチャーは言い放ちます。
「密告はお前だろ」
もはや第二のチャーリー・パーカーなんてどうでもいい。ただ人を追いつめ、叩き潰すことに憑りつかれてしまった狂気の男フレッチャーがそこにいました。フレッチャーはアンドリューの側を離れ、指揮者の位置に戻ります。そこでフレッチャーが聴衆に発表した曲目は、アンドリューが彼から事前に聞かされていたのとはまったく別の曲。アンドリューが何の練習もしていない曲だったのです。
つまり、フレッチャーは業界関係者たちの前でアンドリューに徹底的に恥をかかせ、完膚なきまでに叩きのめすために、この日彼をステージに上がらせたのでした。
ジャズのための祭典ですら、自分の“指導”の場にしてしまうフレッチャー。権威というものが、いかに人を狂わせるかがよく分かります…。
当然ボロボロの演奏でバンドのメンバーだけでなく聴衆も困惑させるアンドリュー。その気まずい空気は、彼がシェイファーを脱落したあのコンクールの日とそっくり同じでした。再び心を折られたアンドリューはステージからフラフラと歩き去っていきます。舞台袖では、どんなときでもアンドリューの一番の理解者だった父親が待っていて、大きく手を広げて傷ついた彼を抱きしめてくれたのです。
「さあ、家に帰ろう」と父親が優しく語りかけるシーンは、見ていて涙が滲みました。家族だけは…親だけは…何の権威性がなくとも無条件に自分を称賛し、その価値を認めてくれる存在なんですよね。正直ここで映画が終わってもいいと思えるくらい、個人的に泣けるシーンです。
でも、天才の条件は「どれだけ叩きのめされても、必ず這い上がってくること」。
父親の腕のなかで一瞬の慰めを得たアンドリューは、それによって心に再び火をつけます。
腹をくくった顔で踵を返し、ステージに戻ってくるアンドリュー。
フレッチャーは少し驚いたような表情を見せますが、すぐに何事もないかのように聴衆への曲の説明に戻ります。
「えー、次はスローな曲を…」
そこで叩きつけられるアンドリューのドラム(このシーン最高!)。フレッチャーの説明をあざ笑うかのようなアップテンポで始まったのは、スタジオバンドで猛練習したジャズの名曲「キャラバン」です。いきなり始まったアンドリューのドラムに唖然とするバンドメンバーですが、彼の気迫に押されて他の楽器も次々と加わっていき本格的に演奏が始まります。勝手な行動を止めようと詰め寄ってくるフレッチャーを、ドラムの一打で追い返すアンドリュー。
さっきまで確実に「このド素人なんでここにいるの?」と思われていたアンドリューが、自分のドラムの技と迫力で他のメンバーを黙らせ、魅了し、従わせていく。自分への周囲の評価なんて圧倒的実力でねじ伏せ、そしてあのフレッチャーからも一瞬でバンドの主導権を奪ってしまうのです。
こんな爽快感が味わえる映画、私は他に知りません。
それは多分、最後にアンドリューがフレッチャーという権威を否定し、「誰からも評価されなかったとしても確実にそこにある自分の才能と実力」を見せつけてくれたからだと思います。
ジャズフェスティバルでフレッチャーの策略にはめられたアンドリューは、悲惨な演奏をしてフレッチャーから「お前には才能がない」と告げられます。ジャズ界の権威であるフレッチャーに才能を見出された!ということだけを心の支えにしていたアンドリューにとって、それは死刑宣告にも等しいものです。
しかし、アンドリューは一度は負けて去ったステージに、自分の意志で戻ってきました。そしてフレッチャーを敵に回しても、その場にいるバンドメンバーや聴衆全てに負け犬だと思われても、もう一度ドラムのスティックを握るのです。
他人の評価なんて、自分の実力とは何の関係もない。
そう思える強さこそ、1つの道を全力で走っていった先にある高みだと感じます。
私にはアンドリューの姿が画家のゴッホに重なります。
生きている間はほとんど絵が評価されず、血のつながった弟だけが自分の才能を信じて応援してくれたという、孤独な芸術家。画家仲間とアルルで芸術を追求する生活を夢見るも、ほとんど誰にもまともに相手にされず、唯一気まぐれで近づいてきてくれたゴーギャンにも否定され、すぐに去られてしまいます。
当時の世間の評価としては完全な“負け犬”だったゴッホ。
当時の画壇の権威から顧みられることもなかったゴッホは、それでも自分の芸術を信じて、描いて描いて描き続けて、画家としての活動期間は短かったものの多くの傑作を残しました。
アンドリューの気迫のドラムは、まさにゴッホの「糸杉」の筆致です。
他人にどう言われようと、自分の才能は確かに今ここにある。
そう信じなければ生まれてこない力強さなのです。
憧れ、追いかけ、認めてもらえたと思って有頂天になっていたジャズ界の権威フレッチャーさえも、最後にはアンドリューのドラムの前にただの聴衆の1人となっていました。
「お前の存在は、もう何の関係もない。そこで俺のドラムを聴いていろ」
そう言わんばかりのアンドリューの演奏に聞き惚れる、ラスト14分間。
最後にはフレッチャーもアンドリューの演奏に引き込まれ、もう一度指揮者として彼のバンドに加わります。そして演奏の最高潮、静止した世界で一瞬目と目を合わせる2人。
フレッチャーが静かに微笑むのを見て、晴れやかな表情を見せるアンドリュー。
この瞬間、まるでアンドリューがさっきまでの気迫を忘れて、もう一度フレッチャーに褒めてもらえるのを心待ちにしている無邪気な生徒に戻ったかのような笑顔が印象的でした。
誰かが自分の実力を認めてくれたら嬉しい。
それが、ごく普通の人間の感情です。
でも、もしも誰にも認めてもらえなくて、業界の権威とされる人にも「お前には才能がない」と言われてしまったら…それでも諦めずに闘い続けられるか。
そこが凡人と天才の分かれ目なのかもしれません。
ああ、この映画大好き。
と、このブログを書きながらもアンドリューのドラムに聞き惚れている、凡人代表の私です。(愛されるより褒められたい)
熱量が大きすぎて長文になってしまいました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました♪
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