フェミニズム映画が花盛りです。
「ビザンチウム」「未来を花束にして」「最後の決闘裁判」「SHE SAID(これはまだ観てない)」「ウーマン・トーキング」…etc。
性暴力の問題に無関心な男性たちは、多分「最近フェミニストがギャーギャーうっとおしいなぁ」と思ってるんでしょうね。まぁ、気持ちは分かります。フェミニズム映画ってエンタメ性よりメッセージ性が強いし、純粋に映画を楽しみたい人にとっては「それはもういいから、面白い映画作ってくれよ」ってなるでしょう。
だから興味のない男性が無理してこういう映画を観る必要はないと思います。
これは、女子だけの必修科目。日本もまだまだ性犯罪への刑罰が軽く、いつまでたっても犠牲になる女性が減らない社会なので「世の中が間違ってるんだよ、あなたは悪くない」って、せめて傷ついた人に同性である女性は寄り添えるようになったらいいな、と。
男性優位の考え方に染まってしまって「性犯罪の被害に遭うのは、女の側にも非があるし」みたいなことを言い出す女性が、こういう映画で考えを変えてくれることを願っています。
というわけで、女子は絶対に観るべきオシャレ★フェミニズム映画「プロ三シング・ヤング・ウーマン」のネタバレ感想いきます。
(ちなみに「彼氏にもこういうテーマの映画を観てほしいな」と思うなら、90年代の名作「テルマ&ルイーズ」をおススメしておきましょう。映画としてのエンターテイメント要素もしっかりあって、フェミニズムに関心がなくても楽しめること請け合いです。この映画観て「イマイチだった」とか言う男はそもそも壊滅的にセンスがないので、切り捨てちゃってOK)
鑑賞のまえに
2020年製作/アメリカ
時間:113分
監督:エメラルド・フェネル
出演:キャリー・マリガン、ボー・バーナム
・フェミニズム映画の金字塔!可愛く聡明な主人公キャシーは映画史に残るヒロイン
・製作にバービーことマーゴット・ロビーが入っているから?ファッションも映像もガーリーでオシャレ!
・ハッピーエンドではないので、スカッと痛快な映画を求めている人には不向きです
あらすじ
昼はコーヒーショップで働きながら、夜ごとバーへと繰り出すキャシー。酔っぱらって意識もはっきりしない彼女に男たちは下心をもって近づき、家へ送るふりをして自宅へと誘い込みます。しかし、実はそれはキャシーの罠で、彼女は男たちが自分の同意なしに性行為に及ぼうとしたとき、素面に戻って彼らの行為の卑劣さを非難するということを繰り返していたのです。
そんなある日、キャシーの働くコーヒーショップに学生時代のクラスメイト・ライアンが現れます。ライアンからのアプローチに心を動かすキャシーでしたが、同時に彼女の人生を狂わせることになった大学時代のとある事件の思い出が蘇ってきて…。
感想
“可愛くてカッコいいヒロインが、男尊女卑の性犯罪者をメッタ切りにする痛快映画”を期待して鑑賞しました、が……何か、ヒロインのやり方が生温い…というのが最初の感想でした。多分、私と同じ感想を抱いた人、多いですよね?
映画紹介とかでも「酔ったふりをして、お持ち帰り男を成敗!」みたいな文言があったと思うんですけど、その内容といえば“ただ泥酔状態を演じて男の自宅に行き、男が事に及ぼうとしたタイミングを見計らって、シラフで相手を制して説教するだけ”という、何とも優等生な成敗スタイルなのです。
何て言うか…もっとこう…殴ったり、蹴ったり、ぶっ放したりが見たい…(笑)
いや、POPでおしゃれな音楽とかファッションとかの演出はすごく好きなんだけど、性犯罪者を成敗するシーンだけタランティーノに作らせてやってくれないかなぁ、と思ってしまいます。(ムカつく奴にはとりあえず火炎放射器、YEAH!!)
でもね、この映画がやりたいことって、そういうことじゃないんですよね。
主人公のキャシーが求めているのは、暴力に対して暴力を返すことではありません。
彼女は性暴力を軽視している人たちに、ただ考えて欲しいだけ。
「レイプなんて大げさな、ただのセックスでしょ」
「そんな騒ぐほどのことじゃないし」
「ってゆーか、そんなに嫌なら自分が気をつけてればいいんじゃん」
「私には関係ないから」
「面倒なトラブルを起こさないで」
そういう人たちに、もう一度考えて欲しいだけなんです。相手は心身ともに深い傷を負ってしまったのかもしれない。そのせいで人生が滅茶苦茶になってしまったのかもしれない。それは本人だけでなく、周りの友達や家族も同じかもしれない。
自分はとんでもない罪を犯してしまったのかもしれない。
一度立ち止まって、そのことを真剣に考えて欲しいのです。一個人が罪を償うにせよ、社会全体をもっと良くするにせよ、すべてはそこから始まるんじゃないでしょうか。人を散々傷つけておいて、保身と無関心とで思考停止して、何事もなかったかのように相手のことを忘れてしまう。いじめでもパワハラでも、問題が繰り返される根本の原因は同じです。傷つけた側がさっさとそのことを忘れてしまうからです。
性暴力の問題で特にその傾向が強いのは、長く社会全体が男性の自己中心的な性を容認する風潮があったからでしょう。
「浮気は男の甲斐性」「英雄色を好む」「男だから(衝動に負けるのは)仕方ない」
それが「俺は悪くないし、男は皆そんなもの」という開き直りにつながり、そして傷ついた女性のことは忘れられてしまうのです。
どう考えてもおかしいですよね。でも実際にその風潮が強かったし(私も父親にそう教え込まれていました)、今も根強く残っています。だから、うっとおしいと思われようとどうしようと、フェミニズム映画を作り続けなくてはならないのです。
さて、そろそろ映画に話を戻しましょう。
前述のように、主人公キャシーは酒場を巡っては酔ったふりをして男を引っかけ、そして男が同意なしにセックスしようとしたところでシラフに戻って「おい、何やってんだよ」とドスのきいた声で咎めるという行為を繰り返していました。
夜な夜なそんなことばかりしているキャシーにはプライベートの楽しみというものはなく、30歳になっても友人も恋人もなく、アルバイトをしながら実家暮らしという生活です。元は優秀な医学生だったという彼女が何故そんな人生を送っているかというと、在学中にあるショッキングな事件を経験したからでした。
キャシーには幼馴染で大親友のニーナという友達がいました。キャシーとニーナは同じ大学の医学部に進学したのですが、ニーナはあるとき学内のパーティーでクラスの人気者のアルにレイプされてしまいます。しかも、もう一人の女友達にも学長にも被害を訴えてもまともに取り合ってもらえず、法に訴えようとしても相手側の狡猾な弁護士によって潰されてしまいます。心を病んだニーナは、退学したのちに自殺してしまいました。
ニーナの面倒をみるために、キャシーも夢だった医学の道を諦めて退学。ニーナの自殺でやり場のない怒りと喪失感を抱えたまま、今のような先の見えない復讐にのめり込むようになったのです。
2人の前途有望な若い女性たちの未来が奪われ、それに関わった人間たちは平気な顔をして人生を順調に歩んでいっている。多分、現実の世界でも似たような状況に置かれている人は山ほどいます。
こんな不条理な目に遭ったとき、一体どうすればいいんでしょう?カフカの「変身」では、ある朝突然毒虫になってしまった主人公グレゴール・ザムザが、社会や家族から拒絶されながらも、できる限り“人間として考え、感じよう”とささやかな抵抗を続けていました。
その努力は周りにはまったく理解されませんが、キャシーも実は同じように抵抗しようとしていたのかもしれません。前途が断たれ、あとは誰からも顧みられずひっそりと社会から消えていくだけ。それでも、男たちに“あんたたちは女を傷つけているんだ”と伝えて行動し続けることで、自分は不条理な運命に完全に打ちのめされてしまったわけじゃないと訴えていたのかもしれません。
そんなキャシーの生活に、あるとき転機が訪れます。医大時代のクラスメイト・ライアンがバイト先のコーヒーショップに偶然現れ、「大学時代から好きだったんだ」とアプローチしてくるのです。複雑な思いを抱えつつも、何となく彼とデートするようになるキャシー。少しずつ表情も柔らかくなり、このまま「ひょっとして今からでも幸せになれるかも?」という雰囲気がただよい始めます。
その一方で、キャシーはおそらくライアンと新しい人生を始めるために「過去をしっかりと精算したい」と考えるようになります。これまで見知らぬ男たちに不毛な復讐を繰り広げてきましたが、本来の復讐すべき相手“ニーナを傷つけた人間たち”に接触して、ケリをつけようとしたのです。
まずキャシーが近づいたのは、ニーナの味方になってくれなかった女友達・ニーナの訴えを無視した学長・ニーナに訴えを取り下げるよう脅しをかけた弁護士、の3人です。
聡明なキャシーは常に冷静で公平で、まずは彼らとニーナの問題について話し合おうとします。もし自分たちの過去の間違いを認めてくれれば、そのまま何もせずに立ち去るつもりだったのでしょう。そしてキャシー自身は思い残すことなく、ライアンと幸せになれるはずでした。
ですが、年月が経っても女友達と学長は何も考えを変えていなかったのです。
相変わらず男たちに媚びた価値観にどっぷり浸かって、その犠牲となったニーナを見下すような発言をする女友達。そして“前途有望な若い男性(プロミシング・ヤング・マン)”の将来を潰すわけにはいかない、という主張のもとに自分を正当化する学長(映画のタイトルは、過去にこの学長と同じ主張をした性的暴行事件の裁判官の発言からつけられています)。
キャシーは「そんなこと言っているけど、もし自分や自分の大切な人が被害に遭ったらどう思う?」ということを考えてもらうため、2人にささやかなトラップを仕掛けて去っていきます。
実害はありません。ただ、逃げずにこの問題を真剣に考えてほしかっただけ。
ただし、2人にはそんなキャシーの思いも届かなかったようです。自分に害があれば大騒ぎ、何もなければ徹底的に無関心。想像力のない人たちに「考えて」なんて、そもそも無理なお願いなのかもしれません…。
2人の態度を見て、キャシーもそう思ったことでしょう。どこか諦めに似た、割り切ったような表情が浮かびます。そんな彼女に、女友達は一つの携帯電話を手渡しました。そこにはニーナの事件の際に男たちがふざけて一部始終を撮影していた動画が残っており、その場にいたメンバーにはライアンも含まれていたのです。
キャシーがどれだけ苦しんだかを想像するだけで胸が痛くなります。幸せになる未来を再び奪われたキャシーは、本当に復讐するべき相手・アルのもとへと向かいました。
この映画の結末については、好みが分かれるところだと思います。これまで相手に言葉で伝えようとする姿勢に徹してきたキャシーが、いよいよ加害者であるアルに対しては暴力で思い知らせるのかと思われました。実際、そのほうが観客にとってはカタルシスが感じられて、映画としては人気が出たかもしれません。
けれど、キャシーは最後までキャシーでした。
彼女はアルに自分の正体を明かして十分に恐怖させてから、あえて彼の反撃を受けて命を落とします。そしてアルがニーナのときと同じ保身に走り、友人と一緒に彼女の死体を焼いて証拠隠滅を行った後、キャシーの計画どおりに警察がアルを殺人の容疑者として逮捕するために乗り込んでくるのです。
キャシーはアルに法の裁きを受けさせたかったのでしょうか?
私は、どちらかというと世間に「どうしてアルはキャシーを殺したのか?→過去に性的暴行事件を起こしていて、それと関連しているらしい」ということを知ってほしかったのかな、と思います。
そして、やっぱり皆に考えて欲しかったのでしょう。自殺をしたり、こんな事件を起こしたりしてしまうほど、女は性暴力で傷ついているのだということを。「男には性欲があるんだから仕方ないよね、自衛しない女も悪いよね」で思考停止しないで、一度本当に真剣に考えて欲しい。すべての希望が断たれたキャシーにとって、それが最後のささやかな抵抗だったのではないでしょうか。
フェミニズムの歴史を紐解いていくときに必ず名前が挙がるのが、エミリー・デイヴィソン。女性の参政権を訴えるために、キャシー同様に自ら馬の前に身を投げ出して命を落としたことで知られていますが、当時のフェミニズム運動は投石や放火といった暴力的な行為を伴っていたため、エミリーの行為もその一環としてかなりの批判を受けたようです。
確かに、どれだけ主張が正しくても暴力行為は正当化できません。
でも世間が自分たちの主張に一切耳を傾けてくれず、どんなに酷い苦境に立たされていても誰も助けてくれなかったら、最終的には暴力で訴えるしかないのは事実です。そうすれば少なくとも皆、自分たちに関心を払ってくれるから。
だからこそ、こうやって映画や小説という平和的な手段で訴えかけてくる主張にしっかりと耳を傾け、一人ひとりが真剣に考えることが大切なんだと感じます。
そして他人の痛みに無関心にならず、誰のことも暴力行為に走るまで追い詰めてしまわないように。
最後まで誰のことも傷つけなかった(…車のランプを叩き割ってたことは、ノーカウントで)キャシーはそう訴えていたんだと思います。
まぁ、「フェミニスト映画はもうお腹いっぱい」という男性たちには、ただモヤモヤが残るだけの映画かもしれませんね。
そんな男性たちにおススメなのはコレ!キアヌ・リーブス主演の「ノック、ノック」!
めちゃくちゃ楽しめますよ~、アナ・デ・アルマスのエロ可愛さ炸裂。
ある夜、主人公が家族の留守中に自宅で仕事をしていると、めっちゃセクシーな女の子2人組が「道に迷った」と訪ねてくる。最初は理性を保っていたのに、ついに彼女たちの誘惑に負けて性行為に及んでしまった主人公。
すると翌朝から女たちの態度が急変し……。というサスペンスです。
何でおススメかというと、弱みにつけ込まれて、女たちに家中をメチャクチャに破壊され、ひどい暴力を振るわれ、家族を侮辱され、人としての尊厳も傷つけられるキアヌ・リーブスに感情移入することで、性暴力の被害を受けた女性の気持ちを理解できる可能性があるからです。
「性暴力ってこんなに残酷なことなんです!」って、いくら女性側が訴えても、多分ほとんどの男性はピンとこないでしょ?男性には性に関することが恐怖や屈辱になるっていう感覚がそもそも無いだろうから(ちなみに知り合いの男性は、若いときにゲイの人に襲われそうになった経験から「多分、女性の気持ちは理解できていると思う」と話していました。実際すごく紳士的な人でした)。
そんな男性陣は、ぜひこの映画を観て。徹底的に痛めつけられるキアヌの姿を見て、女性にとって性暴力ってこんな感じなんだと想像してください。そして、どんなに酷い目に遭わされても「だって家族がいるのにセックスしたあんたが悪いんじゃない」で封殺されるキアヌを見れば、「性犯罪は、女の側にも非がある」と言われることの理不尽さがちょっとは分かるかもしれません。
ほんとにね、男を挑発するような言動をしたとか、若い女と不倫したとか。落ち度があるからって何やっても許されるわけじゃないんですよ。ちょっと考えれば分かることなんですけどねー。
最後は愚痴っぽくなってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました♪
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