どう考えても原題(「A Perfect Day」)のほうがセンスがある…が、そこは流しましょう。
デル・トロさんの中年オヤジな魅力が炸裂した映画ですが、この作品の個人的イチオシ俳優はデル・トロの相棒役のティム・ロビンス!「ショーシャンクの空に」のデュフレーンだよ!「ショーシャンク」とか「ザ・プレイヤー」とかの深刻ぶった役柄が多くて、それはそれで最高なんですが、この映画の剽軽で楽しいキャラクターも良かったですねー。
渋いデル・トロ&イカれたティム・ロビンスの2人がガッツリ画面を盛り上げてくれているので、全体的に地味なストーリーなのに最後まで惹きつけられます。
そして何回でも観たくなる(←良い映画の条件)。
皆さんもぜひ噛めば噛むほどジワる、本作の魅力にハマってください。
それでは、ネタバレ感想いきます。
鑑賞のまえに
2015年製作/スペイン
時間:106分
監督:フェルナンド・レオン・デ・アラノア
出演:ベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンス、他
・舞台設定はボスニア内戦時のバルカン半島でのとある1日。エンタメとドキュメンタリーテイストが「1:1」の黄金比
・内戦の当事者目線を排除し、徹底的に「部外者」の視点で描いているからこそ、残酷な戦争映画が苦手…という人でも楽しめます
・それぞれにタイプの違うイケオジ2人のバディものとして楽しんでもOK!
感想
1本のロープを手に入れるために、大の大人が数人がかりで駆けずりまわる。車で数メートル進むのに一晩かかる。1日かけても、目に見える成果はゼロ……。
Z世代が憤死しそうな、このコスパとタイパの悪さ!
This is NGO活動。
この映画の主役は、ボスニア内戦の際に、現地の人たちの生活支援をすべくバルカン半島にやってきた「国境なき水と衛生管理団」のチーム。とある村の井戸に何者かが死体を投げ込んだため、村人の飲み水が汚染されてしまうという問題が発生。死体をロープで引き上げて、水を浄化するという当然の手順を踏むべく、じゃあまずはロープを手に入れようか、となって動き出してみると…冒頭のような感じになるわけです。
一応現地にもお店的なものはあるのですが、「外国人お断り」ってなわけで何か全然売ってくれない。謎の旗を掲げてる人に「そのロープ貸してくんない?」と頼んでみても、斜め上の理由で全力で断られる。ロープがあるよ~と聞きつけて遠路はるばる出向いてみれば、もれなく狂犬がついている、という。ロープ1本手に入れるのに、どれだけの時間と労力を消費させられるのか…。
「ロープが無いなら、ホームセンターに行けばいいじゃなぁ~い♪」とか言わないであげてください。ここは紛争地帯なので。彼らにとっては、これが当たり前。文句も言わずに、ただ粛々と行動し続ける姿が泣かせます。彼らはやってられないという気持ちを押し殺し、シニカルさや悪ふざけでその日その日を乗り切っていくのです。
私はこれまでボスニア内戦をテーマにした映画をいくつも観てきましたが、そのどれもが現地の人たちを主人公にした、完全に“内部の視点”で描かれたものでした。
それは私たち世代にとって、まだ完全に“歴史上の出来事”にはなっていない、どこかリアルタイムな現実です。そこで家族や生活を踏みにじられた人たちの感情はあまりに生々しくて、映画を観て事実を知っておかなくてはいけないと思いつつも、自分の中のデリケートな部分に傷を負うしんどさを感じます。
それに比べてこの映画、ノリが軽いのなんのって(笑)。
ボスニア内戦を舞台にして、こんなにおふざけやジョークを盛り込んだ映画観たことないです。「やるだけやったけどダメだったわ~。ドンマイドンマイ。さ、次行こ~」みたいな主人公たちのスタンスも、これが本当に戦後最悪の人道危機とも言われたボスニア内戦の話なのか?と肩すかしを喰らったような気にさせられます。
同じ紛争をテーマにしていて何故これほどの違いが出るかというと、この「ロープ」という映画は、あえて徹底した“部外者”の目線で描いた作品だからなんですね。紛争の只中にいる当事者たちの目線は排除し、むしろ現地の人たちの在り方は、主人公たちにとってどこか“異様なもの”として映っています。
そのへんの棒切れみたいなノリで銃を振り回すクソガキ、外国人ってだけで敵がい心バリバリの田舎者、自分たちの唯一の飲み水の中で死体が腐っていってる状況でゲラゲラ笑ってる奴ら。主人公たちの「うわぁ~(引)…」という心の声が聞こえてきそう。現地の人たちを助けるために活動しているNGO職員なんですが、完全に彼らに対して一線をひいて、距離を置いた見方をしてるのが分かります。
え、愛と正義の「国境なき水と衛生の管理団」なんじゃないの?もっと現地の人のために泣いて悔しがったり、怒りに震えたりしないんですか?って、彼らよりもさらに外側にいる私たちからすると意外に感じられますよね。
戦争や災害が起きたとき、離れた場所にいる人間がとるべき態度はざっくり3つに分けられると思うんです。①自分の人生を犠牲にしてでも現地の人たちのために戦うか、②「所詮他人事だから何もしません」を貫くか。そして③は、自分の身は安全圏に置きながら、できる範囲で力になりますというスタンスの人。
どの選択もその人の価値観に基づいてなされるものですし、どの道を行こうと他人から責められるべきではないと思うんですが、この中で圧倒的にピエロ感があるのが③なんですよね。
「がっつり関わるのは怖い」「でも見て見ぬふりするのは気が咎める」「でもやっぱり自分の生活大事」「ちょっと行動を起こしただけでも、私はマシな人間だよね?」
この半端な感じが、①のグループから見ても③のグループから見ても滑稽なわけですよ。
余談ですが、私は思いっきり③の人。何となく寄付とかボランティアとかやって満足だけ味わっているタイプです。こういう立ち位置は、ほんと①②両陣営から疎まれてるのをヒシヒシ感じます。
「本気でやる覚悟もないくせに」あるいは「無意味なことしちゃって」みたいなね。
話が逸れましたが、要するにこの映画の「国境なき水と衛生の管理団」も、大きく分けると実は③のグループに属してるんだよねってことなんです。いやいや、地雷で吹っ飛ぶリスクと隣合わせで活動してるのに③ってヒドくない?と思うかもしれませんが、彼らは紛れもなく③のタイプです。
なぜなら彼らにはちゃんと“平時の生活”というものがあり、基本的にはそこに軸足を置いているからです。元カノ登場でオロオロしたり、同棲中の彼女から「家具の色どーするー?」的な電話がかかってきたり。そういった何となく呑気な空気感が、緊迫の紛争地でも彼らの心を守ってくれているという見方もできます。
でも、その呑気さは確実に現地の人たちにも見抜かれています。「お前らどーせ数日経ったら国に帰って何事もなかったように暮らすんだろ?」ってね。だから、ロープの1本さえ売ってもらえない。
例えばこれが、アフガニスタンで人道支援に人生を捧げた日本人医師・中村哲さんだったら、普通にロープも売ってもらえたと思うんです。中村さんは難病のお子さんがいて、アフガニスタンで活動していたためにそのお子さんの死にも立ち会えず、ご自身も現地で武装勢力に銃撃されるという最期でした。そっちの生き方のほうが正しいとかそういう話ではなく、覚悟の問題なんです。
この映画の主人公たちは中村さんのようには生きていないし、そっちの道に踏み出そうとしている新人をむしろクールダウンさせようと働きかけています。マンブルゥと新人は、同行している少年の家にロープを求めて足を踏み入れました。そこにあったのは、幸せそうな家族写真と、恐ろしい言葉が書きなぐられた壁、隣人に吹っ飛ばされた屋根、そしてリンチにあって吊るされた少年の両親の遺体でした。
あまりのショックに呆然となる新人に、マンブルゥは語りかけます。ここで失われた命も家族の幸せな暮らしも、所詮は過去のものだ。だからもう考えるな、忘れろと。彼らにとってそこでの活動はあくまで仕事であり、仕事である以上は従うべき組織があって、次の現場に向かえという指示があれば、さっさと気持ちを切り替える必要があるからです。
マンブルゥは後でビーを呼び出し、2人は戸口に並んで立ちながらしげしげと遺体を眺めます。そして遺体を吊るしているロープを指して一言。「十分な長さがある」。よし、じゃあやりますかって言うんで、2人は作業用のマスクをかぶって遺体のほうへ向かいます。
さて、そんなマンブルゥとビーのベテラン2人は、理想とか感情のない冷たい人間なのかというと、それはやっぱり違うんですよ。
彼らは、自分たちが所詮部外者だと分かっている。現地の人のために必死に駆けずりまわっても、ほとんどが空回りに終わって、大して感謝もされないと知っている。民族間の対立を止める方法も、そこで悪どい商売をする奴らを阻止する方法も分からないけれど、自分たち自身の身を守るために地雷を避ける知識だけは、いつの間にかしっかり身に付いている。
そんな虚しい現実の中で生きていても、心のどこかで諦めきれない思いがあって、彼らなりに足掻こうとしているんですよね。「国境なき水と衛生の管理団」の活動を調査しにきたマンブルゥの元恋人は言います。「私の仕事は、あなたたちを家に帰すことよ」。
それを聞いて「ひゃっほー、こんな危ない場所からおさらばして家に帰れるぞー♪」と大喜びかというと、決してそうじゃない。マンブルゥもビーも、それに対して懸命に抵抗しています。
2人の心の奥底には①の人たちのような生き方がしたいという理想があり、本気で目の前の人たちを救いたいと思っているのでしょう。
マンブルゥはカティヤから恋人の写真を財布に入れていなかったと非難されますが、家族や恋人の写真は「自分の本当の生活はこことは別の場所にある」ということを紛争地でも忘れないためにあるのです。マンブルゥが写真に縋りたくない理由、ビーが国で自分を待っていてくれる人を持とうとしない理由は、人道支援に本気で人生を賭けるという夢を捨てきれないから。いわば、2人は①と③の境界線で足掻いているのです。
この映画は、内にそういう熱い想いを秘めたオジサン2人の足掻きを、②の視点で見て笑っているという構図なんですね。特に検問で止められたビーがアメリカンジョーク的なものを飛ばして兵士たちと打ち解けようとして思いっきりスベるシーン、マンブルゥが子どものケンカに介入して完全に空気読めてない奴になるシーンは秀逸。恥ずかしいし、実際のところ滑稽です。③のタイプの人間は、①に近づこうとすればするほどピエロになってしまうという、この哀しさ。
残念なオジサン2人を、別に笑ってもいいと思います。ダサいなー、無意味だなーって馬鹿にする人は多いでしょう。それも1つの人生観です。
でも、多分そうやって笑ってる人たちは、マンブルゥとビーの視界には入っていません。彼らの目に映っているのは、まだ会ったことのない人たち。これから彼らが向かう場所で、彼らの助けを待っている人たちです。迷うマンブルゥに、ビーは言います。「ここが家だ。お前を必要としている人たちが家族。そうはないぞ、まだ会ったことない人がお前を待っていてくれるなんて」。
彼らはそうやって自分たちのアイデンティティを保っています。シニカルさやジョークで覆い隠しているのは、実は虚しさではなくて、理想に燃える気持ち。それは彼らにとって命とりになりかねないものであると同時に、それが無いとこんな仕事をやる意味もなくなるという厄介な代物です。
マンブルゥが現地の少年に100ドルを渡すシーン。私はあの1シーンにこの映画の本質がすべて詰まっているような気がしました。
なけなしのボールを売ってでも10ドルを手に入れたい少年。それに対して100ドルをポンと人に渡すことができるマンブルゥ。彼らはあくまでも違う世界にいる2人。そしてその100ドルは、マンブルゥが苦労して手に入れたボールと同様にあっさり別の何かに変わってしまうかもしれないし、もし彼が本当にそのお金で目的地に着いたとしても両親の死という現実を突き付けられるだけ。本当に意味があるのか。ただの無駄なんじゃないのか。
それはマンブルゥ自身にも分かりません。
ただ彼は、自分が少年に何かを与えられる人間でいたかっただけ。その場所で何もできずに去っていくしかないけれど、せめて100ドルを渡して希望を持ちたかったのです。
それを自己満足と笑ってもいいけれど、私はやっぱりちょっと格好良いなと思います。
ちなみに彼らが右往左往している途中で、バスに乗せられた民間人たちが武装した兵隊たちに取り囲まれいる場面に遭遇します。ちょうど最近「アイダよ、何処へ」という映画で、男たちがバスで連れ去られていった後に何が起きたかを見たところだったので、思わずゾクっとしましたね。
直感的に不穏なものを察知したマンブルゥとビーは、兵隊たちにバレないように話し合い、その場を立ち去ってすぐに国連に連絡をして、自分たちが見た光景について伝えました。
何気ないシーンなんですが、実は映画のラストで無事国連軍に保護された彼らが映っているんですよね。その日一日の「国境なき水と衛生の管理団」の行動はすべて徒労に終わったかのように見えて、実は多くの人たちの命を間一髪のところで救っていた、という。マンブルゥたちの人道支援を妨害してばかりしているように見えた国連軍が、その力を正しく発揮しているのも良かったです。最後の最後に「国境なき水と衛生の管理団」と国連の連携プレーで命が救われるという、まさかのオチ。
そうそう、オチといえば件の井戸の死体は、結局あと少しというところで引き揚げることができずに、せっかく手に入れたロープも国連軍の手でブチッと切られてしまって、そこで任務は強制終了してしまいます。
あのロープを手に入れるまでの経緯を見てきた観客としても「まさか」の衝撃でしたよ。そうしてマンブルゥたちは成す術もなくその村を去って、次の目的地・トイレがあふれた難民キャンプへ向かうわけですが、次の仕事の内容が内容だけに「雨が降らないといいな~」なんて口にした瞬間、まさかの雨ザーザー…。もう笑うしかないわってことで、新人ちゃんが「完璧な一日(A perfect day)ね」と皮肉ります。
でもね、この大雨のおかげで井戸の水位が上がって、何と例の死体が地上まで浮かび上がってくるんですよ。村人たちはそれを絵本の「大きなカブ」よろしく、よっこらしょどっこいしょと皆で引き揚げます。もちろん、マンブルゥたちが結んだあのロープを掴んで。
人間万事塞翁が馬という言葉がありますが、最終的に何が幸いとなって何が災いとなるか、それを知ることは1人の人間には到底及びもつかないことです。必死の思いでロープを手に入れて、捕らえられた民間人を見かけたから通報して、少年に100ドルを渡して。それがその後どうなったかなんて、マンブルゥたちに知らされることはありません。
でも、ただ1つ言えるのが、何らかの結果が引き出されたとしたら、それは彼らが見苦しくバタバタ足掻いた結果だと言うこと。「何やったって無意味でしょ」って行動を起こさないことはお利口さんかもしれないけれど、何の可能性も生まない選択であることは確かです。
足掻いて空回りして笑われて。それでもまだ見ぬ誰かの助けになれるかもしれないから、この仕事を続けていく。そんな彼らは何だか幸せそうです。
望む結果に最短距離で到達しなくてはならない。そういう効率化ばかりが求められる働き方をしていると、何だか彼らのほうが羨ましく思えたり…。(ああ、アバッキオの同僚!)
デル・トロというと「ボーダーライン」が代表作として挙げられることが多いようですが、私は断然この「ロープ」のほうが好きです。ボスニア内戦を、現地にいながら完全に“外側”から眺めるという、新しい試みの本作。戦争ドキュメンタリーがお好きな方にも、ちょっと新鮮な視点をもたらしてくれるかもしれません。
一部シリアスなシーンもありますが、比較的ライトに楽しめる映画なのでぜひ気負わずに鑑賞してください♪
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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