西部開拓時代のアメリカが舞台ですが、撃ち合いとか派手な要素はほとんどありません。
ただ静かに重厚な人間ドラマを味わうという、かなり渋めの映画通向けという感じです。
画面の色調は完全にアンドリュー・ワイエスの絵画。
口の中に砂埃のざらついた味まで感じられそう。
もうキャリー・マリガンかミシェル・ウィリアムズが出てたら良い映画だろうと勝手に決めつけてしまうフェミ映画大好きな私ですが、これも多分ちょっとそういう要素あり。
西部劇ファッションでマスケット銃をかまえるミシェル・ウィリアムズめっちゃかっこいいです。「ちょっと難解系かな?」と敬遠している方も、103分の短め映画なのでぜひお試しで鑑賞してみてください!
といつつ、思いきりネタバレの感想いきます。
感想のまえに
2010年製作/アメリカ
時間:103分
監督:ケリー・ライカート
出演:ミシェル・ウィリアムズ
・大きな展開はなく、物語は最後まで淡々と進みます(エンタメ要素ほとんどなし)
・時代ものだけど登場人物みんなボロボロなのでファッションを楽しむ、とかもなし
・緊迫感のあるやり取りや、人間心理的なドラマを楽しみたい人向け
・旧約聖書に詳しいと宗教的な考察などもできそうです
あらすじ
エミリー夫妻を含めた3家族は、2週間で目的地に着けるというガイドのミークの言葉を信用し、移民団を離れて近道のルートをとることにしました。しかし、1か月以上経っても目的地に近づいている気配すらなく、飲み水が残り少なくなる中で、それぞれの家族は次第にガイドのミークへの不信感を募らせていきます。
男たちはミークがわざと自分たちを迷わせようとしているのではないかと考えるようになり、彼を殺すべきかどうか相談するのですが…
感想
荒野を彷徨い、進むべき方角もわからない。飲み水も底を尽きつつある。そんな極限状態で、一体誰を信じればいいのか?
その答えは、「自分自身」です。
この映画は主人公のエミリーがその結論に辿り着く過程を描いているのかな、と感じました。
エミリーとステファン夫妻を含めた3家族は、ガイドのミークの「2週間で目的地に着ける」という言葉を信じて、移民団から離れて近道のルートをとることにしました。
しかし実際には5週間経っても目的地に近づいている気配すらありません。3家族は不安と苛立ちからミークへの不信感を募らせます。そして男たちはミークがわざと自分たちを迷わそうとしていると疑うようになり、彼を生かしておくべきかどうか話し合う……という不穏な状況から物語はスタートします。
ミークがただの無能なのか、はたまた本当に陰謀があったのか、あるいは何か理由があってその遠回りのルートにこだわっていたのか…このあたりは時代背景をふまえて色々考察すると面白いみたいです。途中で一行が金を見つける意味深なシーンもありましたしね。一応実話を基にしているので、考察材料は色々あるらしいです。
…が、私はそのへん不勉強なので、ここでは真実がどうだったかには触れません。
興味のある方は、ぜひネット情報で調べてみてください。
私がこの映画で面白かったのは、物知りで頼もしく見えていた男たちが無力な本性をさらけ出すうちに、それまで黙って彼らに付き従っていたエミリーが次第に前に出てくるようになり、最後には一団の主導権を握るまでになるところでした。
「私たちには難しいことはわからないし、全部男の人たちに任せておけば大丈夫!」なんてスタンスで生きていけるのは平時だけ。
荒野のど真ん中で道もわからない。食料も飲み水も尽きかけている。メンバーの中には妊婦も子どももいる。そんな状況では、ガイドだろうが旦那だろうが知ったこっちゃありません。頼りないやつは後ろに下がらせて、他にできる人間がいないなら自分が前に出て進むべき道を決めるしかないのです。
一番最初にエミリーが疑いの目を向けたのは、ガイドのミークでした。
映画の中のミークのキャラクターは絶妙に胡散臭くて、ペラペラと口はよく動きますが、何一つ結果を出していません。なのに相変わらず自信満々な態度で、誰しも身の周りに1人はこんなやついるな…と思わせるタイプです。
こいつはどうも信用できないらしい…となったとき、女たちが次に頼るのは身内の男、つまり自分の夫です。ミークが自分たちをわざと迷わせているかもしれないという疑いが浮上したとき、ミークの処分をどうするかについて意見を言えるのは、一団の中でも男だけでした。男たちが話し合っている間、妻たちは離れたところから成り行きを見守ります。
しかし男たちの思惑はミークにあっさりと見破られ、開き直ったミークの態度に男たちはタジタジ。結局ミークの処分をどうするかはウヤムヤになり、不安を抱えたまま何となくミークに従って旅を続けることになるのです。何とも情けなくて歯痒い……。
多分エミリーはそんな成り行きを見て、ずっとモヤモヤした気持ちを抱えていたのでしょう。誰もが疑心暗鬼に囚われて重苦しい空気が立ち込めるなか、エミリーは夫ステファンに「私はあなたを信じるわ」と言いますが、その表情は暗く、物思わしげです。
そんな中、女たちと手仕事をしているエミリーのところに、ミークがブラブラと歩いてきて言葉を交わします。相変わらず自分は何でも知っているというような態度で言うことには「男の本質は破壊で、女の本質は混沌だ」。エミリーは反論もせず、ただ厳しい表情でそれを聞いています。「女は創造と無秩序から生命を生み出す。男は不正を排除して破壊を命じる」。
う~ん…何か利口ぶってそれっぽいことを言ってますが、私には「だから僕たちが暴力的なのは仕方ないよね。あと女には秩序ってもんがないから君たちのことは理解できないよ」って正当化してるだけな気もします。あと男たちが話し合いの末に本当に「不正を排除して破壊を命じて」いたら、お前は今ここにいなかったはずですけど?とツッコミたくなる気持ちがなくもないです。
賢いエミリーはミークの言葉をどう感じたのか「分からないわ」「よく考えてみないと」と返します。
ミークは無知を隠すためなのか、それとも腹黒い魂胆を隠すためなのか、こういう哲学的(?)な話や聖書の教えなんかを披露して、自分を「何でも分かってる」風に大きく見せようとします。それが、集団で主導権をとるための彼なりのやり方なのでしょう。結果が伴っていないために一度はリーダーの座を降ろされて殺されそうになっていますが、それでもこの時点までは彼のやり方はそれなりに上手くいっていました。
飢えや不安に苛まれて無力感が広がっている集団では、こういう余裕たっぷりな態度は輝いて見えますからね。みんな何となくミークを胡散臭いと思っても、彼についていくしかありません。集団の中では、いまだにミークの作り出した秩序が機能しています。
ミーク>男たち>女たち
という力関係を維持したまま、旅を続けるエミリーたち。
しかし、1人の原住民が現れたことで、その秩序は大きく揺らぐことになります。
ミークと男たちは数日前から自分たちを監視していた原住民の男を追いかけ、ついに捕らえることに成功しました。
原住民がいかに野蛮で危険かという話で周りを怯えさせ、彼をすぐ殺すべきだと主張するミーク。まだ何もしていない原住民に対して、全員の前で理由のない暴力を振るい、場に緊張感が走ります。女たちのうちの1人はミークが作り出したその空気に飲まれ、原住民への恐怖でパニックを起こしつつありました。
しかし男たちは冷静で、原住民に何とか自分たちの苦境を伝えて、取引によって水のある場所へ連れて行ってもらおうと試みます。荒野を彷徨っている間に樽の中の水は確実に少なくなっており、荷馬車をひく動物たちも衰弱しています。もう時間がないのです。
男たちは原住民に毛布を差し出し「物々交換だ。これが社会のルールさ」としたり顔で言うのですが……そのルール、本当に相手に伝わってる?
原住民は言葉が通じないうえにミークに暴力を振るわれて心を閉ざしているため、当然何を考えているのか分かりません。
一応どこかに向かって歩き出しますが、向かう先が水のある場所なのか、はたまた危険な原住民たちが待ち受ける場所なのか、それはエミリーたちにはまったく予測できないのです。
原住民が不審な言動をするたびに、自信が揺らぐ男たち。
実のところ、これまで“信用できないガイド”という存在がミーク1人だったのに対して、もう1人原住民が増えただけのことなんですね。
しかしこれは難しい状況です。これまでは不満をもらしつつも、とりあえず何も考えずにミークについていけばよかったのが、この先はミークか原住民か、信用する相手を選ばなくてはならなくなりました。
全員の命がかかった重い選択です。
これまで女たちから決定権を委ねられていた男たちは、ここで戸惑いや自信のなさを隠せなくなってきました。
このような混沌とした状況で、皮肉にもミークが女の本質として語ったように、エミリーは勇気を出して行動を起こし始めました。
彼女は仲間の女性が原住民に怯えるのを横目に、あえて彼に近づいていきます。
そして彼のボロボロの靴を受け取り、それを縫い合わせて直してやりました。
なぜそんなことをするのか聞かれたエミリーはこう答えます。
「彼に貸しを作りたいのよ」
決して原住民と仲良しこよしをやりたいわけではなく、彼女は生き延びるために彼を利用したいのです。軽装で荒野を行き来している原住民は、確実に飲み水がある場所を知っているはず。その点でミークより利用価値が高いと自分の頭で判断し、助かる可能性を広げるために、必死に原住民と信頼関係を構築しようとしています。
エミリーが示した知恵と行動力は、アメリカ文学の不朽の名作「怒りの葡萄」に登場する一家の母親に通じるものがあります。「怒りの葡萄」でも命からがら放浪の旅をするなか、何度もバラバラになりそうになる大家族を、母親が精神的柱となってまとめ上げていました。
平時には家長として威厳を保っていた父親は、そんな母親を見て「いつから女が男に指図するようになったんだ」とぼやいていましたが……。
しかし、ミークの言葉はある意味で正しいのでしょう。
一部の女は、こういう混沌で発揮する知恵と力を持っているのです。
「毎日畑で働いていればいい」「この相手に従っていればいい」
そういう明確なルールがある状況では男は安心して堂々と振舞うことができ、女はそれに従っていればいいのかもしれません。
しかし無秩序な混沌にいきなり放り出されたとき、それまで自信満々に振舞っていた男たちは無力感に襲われ、これまでと同じ役割を果たすことができなくなります。
そのときは、女の出番なのです。
「怒りの葡萄」の序盤にも、不況に打ちのめされる男たちの様子を、女がじっと観察している場面がありました。女たちは判断しなくてはなりません。まだ男たちに任せていて大丈夫なのか。それとも自分が前に出て主導権を持たなくてはならないのか。
エミリーにもその決断のときが訪れました。
ミークは疑わしい。新たに現れた原住民も完全に信用することはできない。
男たちは誰についていけばいいか分からず、途方に暮れ、弱りつつある。
だから、今自分が進むべき道を決めなくてはならないのです。
エミリーは原住民についていくことを選択しましたが、原住民を信じているわけではありません。
彼女が信じているのは自分自身。「原住民に案内させたほうが生存の確率が上がるはず」という自分の判断です。
心を決めたエミリーは、それまで一団の方針について話し合う男たちをただ黙って見ているだけでしたが、前に出てはっきりと自分の意見を口にするようになります。
言葉の通じない原住民の代弁をするかのように、「あの丘の向こうに水があると言ってる」と主張します。
ただし、その丘を目指すには傾斜の大きい下り坂を行かなくてはなりません。
慎重にロープでつないで荷馬車を下ろそうとするも、重さに耐えられず荷馬車は坂を滑り落ちます。エミリーたち夫婦の荷馬車は壊れ、荷物も水も滅茶苦茶になりました。
「この道を選ぶ」と決めても、不測のトラブルで状況が行き詰まり「ああ、私の判断は間違っていたのか」と心を折られてしまう人もいます。さらにエミリーは夫のステファンからも「君はミークを嫌うあまり判断を誤っているんじゃないか」と、自信を揺さぶられるようなことを言われます。
しかし、エミリーは進むべき道を誰かに任せることはせず、自分で判断すると決めたのです。決めた以上は、トラブルや他人の言葉なんかに惑わされはしない。それが彼女の強さです。
壊れた荷馬車に近寄り、エミリーたちの荷物を漁り始める原住民。それを見たミークは激昂し、彼に銃を向けます。しかしそのミークに狙いを定めた、もう一つの銃口。それはエミリーが構えるマスケット銃でした。
ミークは自分に銃を向けるエミリーと、それを見守る集団に向けてこう言います。
「君たちは何も分かっていない、この状況を」
「丘の向こうにあるのが何か、水か敵の大軍か、どちらか分からない」
それに対してエミリーはあっさりと言うのです。
「そうね」
エミリーにも男たちにも他の女たちにも、水がどこにあるかは分かりません。
彼らにできるのは、「案内役を誰にするか」を決めることだけです。
そしてエミリーは、ミークと原住民を観察した結果、原住民を選びました。
彼女は自分が選んだガイドを守ろうとしているだけに過ぎません。
自分にできることと、やるべきことが明確になっているから、ミークの言葉にも迷いがないのです。
ミークは恐怖を煽ることで、一行を原住民でなく自分に従わせようとしてきました。しかし「誰にも頼らず、自分の進むべき道を自分で決める」と腹をくくったエミリーには、もう彼のやり方は通用しませんでした。
そうして一行が進んでいった先には、一本の木が立っていました。
子どもが「木が育つってことは、水があるってことだよね?」と大人たちに尋ねます。
映画は木の周りに立つ人々を映し出して、唐突に終わりを迎えます。
彼らが水のある場所まで辿り着いたかどうかという結果は描かれず、エミリーが決断した道に小さな希望の光だけを示して幕を閉じるのです。
なぜなら結果は結果でしかなく、人間の知恵や強さとはまた別の問題ですから。
エミリーが自分が決断した道を進んだ、そのことに意味があるのでしょう。
短いけれど、緊迫感があり見応えのある映画でした。
既存の価値観が通用しないた時代にこそ観るべき物語ですね。
興味を持たれた方はぜひ。
何気に名優ぞろいで贅沢な作品ですよ!
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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