~最後に残ったのはサンフランシスコへの愛~「ラスト・ブラックマン・イン・サンフランシスコ」

ドラマ

A24作品というだけあって、まずは映像がアーティスティック。

初めて観たときは正直その映像美に圧倒されて、ストーリーにそこまで思うところは無かったんですよね。ノスタルジックで切ないお話だな~くらい。

それは私がサンフランシスコという街に詳しくなくて、作り手からこの街に注がれる温かいまなざしを感じ取れなかったせいかもしれないです。

監督自身がサンフランシスコの出身で、この町の変化(再開発によって不動産価格が高騰、金持ちが押し寄せてきて、元々の住民は家賃を払えず追い出されている)に感じる憤りや寂しさが原動力となって作られた映画、という背景を知って、初めて感動しましたね。

(ちなみに主演のジミー・フェイルズは監督の親友で同じくサンフランシスコ出身。物語のジミー・フェイルズは、俳優ジミー・フェイルズをモデルとしたキャラクターなのだそう)

映画のラストからも分かるように、街の変化は止めようもなく、ただ受け入れるしかありません。でも、かつてその場所に流れていた時間、そこにいた人々への愛を語りたい、という作り手の感情が伝わってきます。

その中でも、一軒の美しい家に執着する若者にスポットを当てているのがいいですよね。

小説になっても読み応えがありそうな、深みのあるヒューマンドラマになっていました。

今回は主人公ジミーと「家」の関係について、しみじみ語っていきます。

鑑賞のまえに

2019年製作/アメリカ

時間:120分

監督:ジョー・タルボット

出演:ジミー・フェイルズ、ジョナサン・メジャーズ

・監督のサンフランシスコへの愛があふれる、ラブレター的映画。サンフランシスコあるあるも散りばめられているので、詳しい人は一層楽しめそう

・さすがA24という映像美は一見の価値あり!アート大好きな人にもおすすめです

・街のジェントリフィケーションがテーマなので、ノスタルジックかつ切ない雰囲気。ハッピーエンドとはいえませんが、詩的で良いラストです

あらすじ

再開発が進み、急速に変化していく街サンフランシスコ。かつて家族でそこに暮らしていた黒人青年のジミーは、不動産価格が高くなったことから家を追い出され、その後家族は離散。今は友人モントの家に身を寄せながら、自分が生まれ育った美しいヴィクトリア様式の邸の修理をして、日々を過ごしている。その家に住み、彼の存在を迷惑がっていた白人の老夫婦は、ある日遺産相続のトラブルから家を追い出されることになる。

家が空き屋となったことで、ジミーはそこにかつての家具を持ち込んで新しい生活を始める。白人の富裕層ばかりが住む高級住宅街でジミーの存在は浮いていたが、彼とモントは美しい邸をかつてと同じ姿に蘇らせようと手を加えながら、満ち足りた時間を過ごしていた。しかし彼らが家を不法占拠していることを不動産会社に知られ、ある日2人が帰宅すると家具はすべて路上に投げ捨てられていて…

感想

住人に罵られても、淡々と家を修理する。

空き家になれば、そこに住み着く。

追い出されそうになっても、住み続ける。

主人公・ジミーはかつて子供時代を過ごした家に強い執着を抱いていて、その家にぴったりと張り付いて離れようとしません。

いつかこの家を完全に取り戻す。その夢が、ジミーの生きる意味になっています。

なぜなら、それは彼の祖父が自らの手で建てた特別な家だから。外観や内装、光の差し込むステンドグラスまで、どこをとっても芸術作品のように美しいヴィクトリア様式の家。

その家をこの世に生み出したのは、他の誰でもない自分の先祖だった。

それはジミーにとっての誇りであり、彼のアイデンティティでした。

そしておそらくは、自分が他の黒人たちとは違う“特別な存在”だと信じる根拠でもあったのです。

映画の中でジミーの友達の1人が「施設にいる黒人の子供は、自分を大きく見せようとして嘘をつく」と語るシーンがありますが、人は惨めであるほど、自分を慰める物語を作り出してそれに縋ろうとするものなのではないでしょうか。

かつてはジミーやその家族のような貧しい黒人たちを含めて、多種多様な人々を受け入れていた街・サンフランシスコ。それが再開発によって“金持ちの白人の街”に変わっていき、ジミーたちのような黒人は、故郷であるはずのサンフランシスコに背を向けられてしまいました。

ジミーの家族は美しい家を手放すことになり、やがて一家はバラバラに。ジミーは母親に捨てられたという傷を抱えて生きることになります。優しい叔母さんは田舎に引越してしまい、父親は薄汚く狭いアパートに引き込もるようになりました。

サンフランシスコの不動産価格が上昇して家の税金が払えず、家族と共に惨めに路上に追い出されることになった父親は、「自分は負けた」という惨めさから立ち直れていないのでしょう。ジミーがかつて皆で暮らした家に執着していることを知ると「あの家の話はするな」と怒鳴り、心を閉ざしてしまいます。

ジミーにとって「家」は、言わば最後に残された家族のようなものであり、「自分は父親のようにまだ負けてはいない」という証明でもあるのです。

サンフランシスコといえば元々は日系人たちの街であり、太平洋戦争中に政府が彼らを街から追い出して収容所に入れたことから、その空き家に黒人たちが入ってきたという歴史があります。

つまり元はといえば、サンフランシスコの街や家々は、黒人たちが「俺たちのもの」と胸を張っていえるものではありません。ほとんどの黒人は他所から流れてきて、人が手放すことになった家にただ住み着いただけ。そのため、彼らもまた元の住人達であった日本人と同じように、社会の変化によって街を追い出されることを受け入れるしかありません

しかしジミーは、自分は他の黒人たちとは違うと考えています。

なぜなら祖父は自分の手でこの家を建てたのであって、人のものを奪ってフラリと住み着いたわけではないから。その家は間違いなく自分たち家族の物であり、権利を保証された自分の居場所であり、言うなれば自分はサンフランシスコという街にしっかりと根付いているはずだと考えているのです。

金持ちの白人だらけになったこの街に、自分は最後の黒人としてしがみついてやる。なぜなら俺は特別な存在だから。

ジミーのプライドや戦う気力、この街はまだ自分には背を向けていないという信念。すべては“祖父が自分で建てた家である”という、その一点にかかっていました。

親友のモントはジミーの信念に敬意を持ち、いつも行動を共にして、あらゆる場面で力を貸してきました。

しかし、あるときモントは不動産会社の人間とのやり取りから真実を知ってしまいます。

2人が持ち込んだ家具が無残にも路上に放り出されているのを見たモントは、すぐに不動産会社の営業のところに乗り込んでいきました。当然、営業マンは不法占拠をしているジミーとモントの言い分に耳を貸す気はありません。

「家具を捨ててもよかったのに、路上に置いてやったのはお情けだ。1週間以内に退去しろ」と、冷たくあしらわれます。カッとなったモントは「虚偽広告で訴えてやる!」とわめきました。しかし誇大広告は不動産業界では当たり前のことだと鼻で笑う営業マン。

そこで、とっておきの切り札としてモントが突き付けたのが、あの家の歴史にも間違いがあるということです。広告には、ジミーの祖父がサンフランシスコに来たのよりも100年も昔に家が建てられたとあります。それこそが不動産会社が嘘ついている何よりの証拠だと息まくモントに、営業マンはぽかんとしたような表情で「何の話だ?」と言うのです。

彼が取り出してきた不動産の登記簿に書かれていたのは、「1857年 建築家ギルフーレイ」という一文でした。フェイルズ一家について書かれていたのは、90年代に家を手放したということだけ。

ジミーの祖父が自分の手で家を建てたというのは、ジミーの父親、あるいは祖父自身がついただったのです。

つまりフェイルズ一家は、他の黒人たちと同じで、何一つ特別な存在ではありませんでした

「祖父はサンフランシスコにやってきた最初の黒人で、自分でこの家を建てたんだ」というのは、家族が自分たちを特別だと思い込むための、ささやかな神話でした。税金が払えずに家を追い出され、路上生活から不潔な倉庫の不法占拠。その苦しい暮らしの中で、きっと何か縋るものが必要だった

自分たちは惨めな敗残者ではないと、特に子ども達に信じさせるための神話が必要だったのです。きっとあの家に暮らしていたときには、冗談まじりのホラ話だった「おじいちゃんがこの家を建てたんだぞ」というエピソード。それはいつしか彼らの心の支えになっていました。そして幼いジミーは、それを真実だと思い込むようになったのです。

いつもジミーの側にいてその話を聞かされていたモントも、それを信じていました。そのサンフランシスコ最初の黒人というのはとても美しい物語で、信じるに値するものがあったからです。

しかし事実が突き付けられたとき、モントは悟ります。

ジミーに本当のことを伝え、その夢を終わらせるのは自分の役割なのだということを。

モントが不動産会社を後にして家に戻ると、家具をあらかた家の中に運び込んだあと、バルコニーで物思いにふけるジミーの姿がありました。

モントは穏やかに「この暮らしはいつまでも続かないかも」と切り出しますが、ジミーはそれに対して「他に行くところがない」とこぼします。

つまり、それこそがジミーが家を諦めることができない理由でした。

家族はバラバラ。母親にいたっては、どこに住んでいるのかもわかりません。街で偶然出会って「明日遊びにきてよ」と約束しても、その日会えなければ、それっきり縁が切れてしまうような関係性です。

ジミーは、この家の他に居場所がないのです

だから、明日追い出されるかもしれないと分かっていても、今日は昨日までと同じように生活する。それを繰り返していくしかありません。

信念を持ってタフに行動しているように見えたジミーは、実際には守ってくれる家族もなく怯えている若者でした

モントはそのことを理解し、ジミーを傷つけることになると知ったうえで、ある行動に出ました。彼らの家で一人芝居を上演し、観客の前でジミーにはっきりと辛い事実を告げたのです。

芝居の中で、モントは「人には側面がある」と訴えます。通りすがりの人からは路上のチンピラにしか見えなかっただろうコフィには、優しい側面があり、仲間との友情があり、弱いものを守って敵に立ち向かった過去があるということが明らかになりました。

モントがその流れの中で何をジミーに伝えたかったのか。それは

「お前はこの家があるから特別なわけじゃない。

お前にはもっと色んな可能性がある。

家族も友達もいる。

この家を手放したって、すべてを失うわけじゃない。

この家に縋る必要なんてないんだ!」ということだったのではないでしょうか。

ずっと目を背けていた事実を突き付けられて、ジミーは打ちのめされました。

しかし、彼が父親のように自暴自棄にならず、やがて穏やかに真実を受け入れられるようになったのは、このときのモントの優しさがあったからだという気がしてなりません。

心の支えであった家族の物語を失い、本質的な意味において家も失ったジミーに最後に残されたもの。

それは生まれ育った街・サンフランシスコへの愛でした。

自分が手放すことになった家を憎み続けてきたジミーの父親。

自分たちを追い出した街に「くたばれ サンフランシスコ」と呟く叔母。

ジミーもまた家を手放し、街を出る決断をします。

しかし彼らとは違い、ジミーは生まれ育った家とサンフランシスコの街への愛を失うことはありませんでした。

バスの中で悪態をつく女性たちに、ジミーはそっとお願いをします。

「この街を憎まないで」

時代の変化のなかで、サンフランシスコは自分が大切に思っていたような街ではなくなっていきます。家賃が高騰して、とても自分が住めないような場所になれば「街から拒絶された」と感じるかもしれません。

けれどサンフランシスコはあらゆる歴史が積み重なって作られていく街であり、水面下に沈んで見えなくなってしまったように思える部分に、確かに昔の懐かしいサンフランシスコは存在しているのです。

ジミーはその思い出を胸に、小さなボートに乗って街を出て行きます。

彼が日の出の海をゆっくりと進んでいく姿には「この街に負けて、惨めに逃げ出していった」という印象はまったくありません。

優しい希望を感じるラストこそ、この映画にはふさわしいと思えます。

ジェントリフィケーションはあらゆる人の居場所を奪い、家族の思い出を傷つけ、1人の人間のアイデンティティをすら危うくさせるものです。

私も、自分が育った小さなマンションが取り壊され、懐かしい金木犀の木も姿かたちも無くなって、その跡に近代的な大型マンションが建っているのを見たとき、例えようもない喪失感を覚えました。

けれど、やっぱり自分が生まれ育った土地を、ずっと愛していたい

そのためにジミーは新しい場所で人生をやり直すと決めたのでしょう。

寂しい嘘に縋りつかなくても、「サンフランシスコは自分の街だ」と胸を張っていえる人間になるために。

1つの街の変化を通して、そこに住む人の喪失と再生を描いた、とても詩的な映画でした。

これとよく似た構図、同じくらいアートな映画が「ガガーリン」ですね。

実在したフランスの低所得者層向けの集合住宅・ガガーリン団地が取り壊されることになり、そこで暮らす少年ユーリが何とか取り壊しを阻止しようと孤独に闘う物語です。

母親に捨てられ、ガガーリン以外に行き場所がないという点でも、ジミーに重なるところがあります。

宇宙をイメージさせる幻想的な映像やカメラワークが素晴らしい映画です。

「ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ」を観てアートな映画も悪くないなと思われたら、ぜひこちらも鑑賞してみてください!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました♪

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