「お父さんがいっぱい」という本をご存じでしょうか?
児童文学作家・三田村信行氏による(一応)子ども向けの本なのですが……その中身たるやカフカも真っ青の不条理に塗れた世界。
子どもの頃に読んで強烈な傷跡が残りましたが、それでももう一度あの本が読みたい!と、まるで薬物中毒者のように手を伸ばしてしまいました。
この本の怖さは「家族の中には確かに私の居場所があって、誰も私の代わりにはなれない」という子ども達の絶対的な自信をペシャンコにしてくるところです。
未読の方はぜひ。大人が読んでも十分ゾッとします。
前置きが長くなってしまいましたが、映画「もっと遠くへ行こう」も「お父さんがいっぱい」に相通じる、自分という存在への自信が根っこから揺らぐような作品でした。映画は近未来SFのジャンルに留まっていますが、原作はスリラーテイストというのも頷けますね。
終末期の荒涼とした世界観や、雄大な大自然の風景は美しい映画です。
今回は冒頭から一番大事な部分のネタバレをするので、まだ本編を観ていない方は回避してください。
鑑賞のまえに
2023年製作/アメリカ・オーストラリア・イギリス
時間:111分
監督:ガース・デイビス
出演:シアーシャ・ローナン、ポール・メスカル、など
あらすじ
地球が荒廃した近未来の世界。郊外の一軒家で暮らすヘンとジュニア夫婦のもとへ、ある夜1人の男テレンスが訪れます。彼は政府関係者を名乗り、ジュニアが宇宙への移住計画のメンバーに選ばれたと告げました。そしてジュニアが不在の間にヘンはジュニアのクローンAI(リプレイスメント)と暮らすことになるというのです。
最初は反発しますが、渋々ながらもテレンスに従い、AIのための情報提供に協力することになるヘンとジュニア。テレンスが生活に入り込んできてプライヴァシーを侵され、次第に別れのときが近づいてくるという焦りのなかで、2人の関係にも変化が現れ…
感想
表面的には「ロボットとかAIに自我が芽生えちゃって、でも人間扱いしてもらえないから可哀そう」系の物語です。さらっと観ただけだと、こういう展開はすでに手塚治虫の時代に散々やり尽くされてるよってなりそう。
でも、この映画のメインテーマを読み解いていくと、行きつく結論は「AI可哀そう」じゃなくて、「人間可哀そう」なんですよね、実は。
これまで多くの物語が「人間はオンリーワンな存在だから素晴らしい」ということを訴えてきましたが、この映画では逆に「オンリーワンとかどうでもいい。恋人でも家族でも、自分にとって都合よくカスタマイズできるほうがいい(=AI最高!)」という、割と身も蓋もない真実を描いているのです。
駆け足で映画の内容をまとめると…
①地球の荒廃が進んだ未来の世界では、人類が宇宙への移住計画を進めている。
②寂しい一軒家に住む主人公夫婦のもとに、突然政府の役人がやってきて「ご主人は移住計画のメンバーとして、ひとまず1年間宇宙で生活してもらいます」と告げられる。
③夫が不在にする間、なぜか夫にそっくりの外見のAI・リプレイスメントが妻と一緒に暮らすことになるから、そのためのデータが欲しいと言われる。
④役人にインタビューされる中で妻は夫への不満などを漏らすも、これまで冷え切っていた夫婦の関係は少しずつ修復されていく。
⑤夫の出発の日が近づいてもうすぐ離れ離れになるという状況で、夫婦はお互いへの想いを再確認する。
⑥…が、実はこの夫こそ今宇宙にいる本物の夫の代替AI(リプレイスメント)であり、出発の日と言われていたのは“リプレイスメントに家族と共同生活をさせてみる”という実験の最終日だったことが明らかになる。
⑦妻は本物の夫ではないと知りながら彼を愛するようになり、リプレイスメントが回収されるときに泣き喚く。
⑧本物の夫が妻との生活を再開するも、2人の間はうまく行かずにやがて妻は家出。
⑨政府の役人は今度は妻のリプレイスメントを夫の元へ連れて行く。
⑩夫はリプレイスメントと知らず、妻が戻ってきたと思い込んでハッピーエンド(新たな実験の始まり?)
この乱暴なあらすじをさらに要約すると…
【第一幕】本物の妻×本物の夫=不幸な結婚生活
【第二幕】本物の妻×AIの夫=幸せな結婚生活
【第三幕】本物の妻×本物の夫=やっぱり不幸な結婚生活
【第四幕】AIの妻×本物の夫=幸せな結婚生活
つまり、オンリーワンな人格を持った人間なんかと暮らすより、自分にとって都合のいい人格に作り上げたAIと暮らすほうが、人は幸せになれるってことなんですよね。
まぁ、当たり前といえば当たり前の話です。
誰しもパートナーと一緒にいるときに「この人の性格、もうちょっと〇〇だったらいいのになぁ」と思ったことありますよね(…え、私だけ?)。
夫婦の間って、環境とか微妙な力関係とかが影響して、片方が我慢を強いられて相手に合わせていることが結構多いです。
この映画の主人公、ヘンとジュニアの夫婦なんてまさにそのパターン。ヘンはジュニアが代々受け継いできた農家に嫁いでくる形で、完全に“ジュニアのフィールド”に引き込まれてしまいました。当然ジュニアはヘンが自分たち一族のライフスタイルに従うことを要求するし、彼女自身の嗜好や考えなどは“異物=邪魔なもの”と捉え、排除しようとします。そんな暮らしの中で、本来感受性が豊かなヘンの心は少しずつ擦り切れていました。
そこに目をつけたのが、リプレイスメントの実験対象を探していた政府の役人・テレンスだったんですね。
実験の名目は一応、「移住計画のメンバーが不在の間、家族がリプレイスメントと暮らすことで元の生活を維持できるかを検証」ということだったんでしょうが…私はこの理由だけだと、リプレイスメントの必要性自体にめちゃくちゃ疑問を感じました。家を空けることになる移住計画のメンバーにとっても、余計なお世話のありがた迷惑でしかないですし。
しかも政府がそんなことにそこまでコストをかけるのって…何か不自然。完全に「何か裏がある」臭いがプンプンします。
映画のなかで語られるわけではないし、私は原作も読んでいないので勝手に想像するしかないのですが…未来の世界では、家族とか人間関係のあり方そのものを根底から考え直そうとしているのかなと感じました。
AIにジュニアの人格をコピーするため、テレンスから結婚生活について尋ねられたヘンは、抑えきれずに夫への恨み言を打ち明けています。抑圧された女性が抱く、自分の気持ちを尊重してくれないパートナーへの不満。このあたりはヘンに強く共感した女性も多いでしょう。
ヘンにも、もちろん最初はジュニアと一緒にいて幸せな時期がありました。まだ10代の多感な時期に恋をして、雨の中でロマンティックな結婚式を挙げて。彼とこのままずっと幸せに暮らせたらなぁと思っていたはずです。
ですが、ほとんどのカップルのケースがそうであるように、現実の結婚生活は思い通りにはいきませんでした。彼は私がピアノを弾くのを嫌がる。私がこの家での暮らしに馴染めないことを分かってくれない。出会った頃のことをもう忘れてしまった。ヘンの中では夫へのそうした不満がどんどん溜まっていき、夫婦関係は破綻寸前。
理想をいえば、行き詰ってしまった関係を夫婦2人でもう一度見つめ直すのが一番です。でもそんなドラマか漫画みたいな展開、現実にはほとんどあり得ません。だってジュニアのほうは現状に不満なんて感じていませんから。自分が慣れ親しんだ環境にヘンを連れてきて、自分は生き方を変える努力をしなくていい。考えが合わないことがあれば、ヘンのほうが自分を殺してジュニアに従うという関係が、暗黙の了解として出来上がってしまっている。
家の地下室で埃をかぶっているピアノが、そのことを何よりも物語っています(ヘンの人間性の封印)。ヘンはピアノを弾くのが好き。でもジュニアはヘンがピアノの演奏を楽しんでいることが気に喰わない。なぜならピアノを弾いていると彼女はイキイキしていて、何らかの力を持っているように感じさせるから。彼の支配の外にあるように見えるからです。こうしてジュニアはヘンからピアノも取り上げてしまったのです。
ヘンとジュニアの夫婦の場合、ヘンはあたかもジュニアにとって都合よくカスタマイズされたAIのような生き方を強いられていました。本当は一個の人格を持った人間なんですけど。でも、ジュニアにとってはヘンがありのままの彼女でいるよりも、自分に合わせてくれているほうが居心地がよかったのです。
奇妙なことに、テレンスが持ちかけてきた話はそんな2人の立場を逆転させることになりました。ジュニアが宇宙へ行っている間、ヘンには夫のリプレイスメントが与えられるといいます。このリプレイスメントを作るにあたって、ヘンとテレンスの間にはどんなやり取りがあったのでしょうか?
AIジュニアは、本物のジュニアの完全なコピーではありませんでした。正確にいうと、彼はヘンとの関係がまだうまくいっていた頃のジュニアをコピーしたAI。だからヘンはもう一度彼を愛するようになったのでしょう。もしこのリプレイスメント実験の目的が、「移住メンバーの不在期間の穴を埋めること」だけであったなら、現在のモラハラジュニアを完全にコピーしておいたほうがいいはず。
本物よりも理想的なAIが不在の穴を埋めてしまったら、本物が帰ってきたときに家中どこにも居場所がなくなってしまうということは、ちょっと考えれば分かりますから。
私には「ヘンがAIジュニアを愛してしまって、本物のジュニアとの暮らしを放棄する」という結末は、テレンスが狙ったものとしか思えませんでした。抑圧されて疲れきった妻のところに、結婚当初の優しかった夫を連れて行けば、絶対「もう一度この人とやり直したい」ってなるでしょう。
つまり、この実験で証明されたのは「カスタマイズされたリプレイスメントは、本物よりも満足な人間関係をもたらす」ということ。さらには「リプレイスメントがあれば、人間関係は何度でもやり直しが可能」ということです。
映画の最後に、ヘンに去られて独りぼっちになったジュニアのもとへ、AIヘンがやってきます。ジュニアは昔と同じ従順な彼女を本物のヘンと疑わず、大喜びで受け入れました。相手がリプレイスメントだと知っていてもいなくても、結論は同じ。リプレイスメントによって破綻した結婚生活をリセットし、もう一度やり直すことができるということが分かりました。これでリプレイスメント実験の目的は、真に達成されたといえるでしょう。
人間関係がゲームみたいに簡単にリセットできて、自分にとって都合のよい相手に囲まれて暮らすことができたら、人間の幸福度は確実に上がると思います。さらに相手がAIだということを死ぬまで知らずに過ごすことができたらパーフェクトなのかな。
あとは、リプレイスメントが一番活躍しそうなのは“死んだ人の代わり”ですよね。故人と同じ受け答えをしてくれるAI(ひょっとすると本物よりも理想化されたAI)さえあれば、もう大切な人が死ぬことは悲しくもなんともなくなるかもしれません…死ぬ本人以外の人間にとっては。
そういえば少し前の日経ビジネスの特集記事で読んだのですが、“亡くなった家族代わりのAIを提供する”というサービスはすでにアメリカの民間企業で提供が始まっているみたいです。多分今の時点での満足度はそれほど高くないと思われますが、AIがこのまま進化すれば本当に死んだ人の代わりになるのかも。
結婚生活がうまくいっていないときに自分のパートナーがリプレイスメントのサービスに興味を示していたり、自分が余命わずかのときに家族がせっせとリプレイスメントの準備をしていたら…想像するだけで悲しくなりますよね。自分の存在価値って何だったんだろうってなると思います。(このあたりの問題をAI側の視点で書いているのが、カズオ・イシグロの傑作「クララとお日さま」ですね)
冒頭で紹介した「おとうさんがいっぱい」という本ですが、ある日突然何から何まで自分と同じ人間が何人も現れて、誰が本物なのか分からなくなるというお話なのです。物語の中では最後までその不思議な現象がなぜ起きたのかは語られませんが、これAIの進化が行きつくところまで行けば、普通に現実でも起こりそうな話ですよね。
どれが本物か検討もつかない状況で、いつしか「本物は誰か」よりも「家族にとって都合がいいのは誰か」に思考がシフトしていくところが、なかなかの恐怖です。
結局のところ人間にとって「自分が楽をしたい」「苦しみたくない」「寂しい思いをしたくない」ということが大事で、互いに傷つきながらも人としての絆を築き上げていく努力に価値なんてないんでしょうか?
AIが急速に進化していく中で、私たち一人ひとりがこの問いを突き付けられる日は、そう遠くないのかもしれません。
あ、ちなみに「なぜ政府がコストをかけてこんな大がかりな実験をしたのか」という疑問ですが、「人間がある日パッと消えてしまっても、リプレイスメントさえあれば残された家族はガタガタ言わない」ということが分かれば、色々とやりやすくなりそうですよね。
…と、いうわけで、映画もやっぱりホラーテイストな作品「FOE(原題)」でした。
FOE。意味は「敵」……私たちの敵はAIか、人間性を損なうような政策を進める政府か、それともどこまでも自分勝手にしか他者と関われない私たち自身なのか。
真の敵は、誰だ?
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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