「ラ・ラ・ランド」ー青春時代の恋人はラ・ラ・ランドの中で永遠にーネタバレ感想

ミュージカル

先にデイミアン・チャゼル監督の「セッション」を鑑賞して「おおおぉぉぉー!」となったので、大ヒットしたこちらの映画にも飛びついたのですが…何か映画のトーンが全然違う。笑

基本ダークな色調の「セッション」に比べて、画面が明るい、まぶしい。

同じ夢を追う若者のストーリーなのに、明と暗がはっきり分かれているのが面白いです。

「セッション」はひたすら一流のドラマーになることだけを見据えて猛進しているのに対して、「ラ・ラ・ランド」は“まだ何者にもなれていない”という状態をある種の自由と捉えて楽しんでいるようにも感じます。

夢を追うのに恋は邪魔者か、大切な心の支えか。人によって答えは変わりそうですよね。

それでは冒頭から思いっきりネタバレの感想いきます。

鑑賞のまえに

2016年製作/アメリカ

時間:127分

監督:デイミアン・チャゼル

出演:エマ・ストーン、ライアン・ゴズリングなど

・素敵な音楽・映像・ダンスで楽しめる、王道の青春ミュージカル

・「もし、あのとき別の道を選んでいたら…」という妄想を最高に詩的に表現してみた

・この映画を観て「チャラチャラしてんじゃねーよ」と感じる夢追い人ガチ勢には、同監督の「セッション」がおすすめです

あらすじ

ある日、渋滞に巻き込まれたミアは車の中で芝居のセリフを練習していました。ミアは女優を目指していてオーディションを控えていたのです。セリフ読みに夢中になって進まないミアの車に苛立ち、クラクションを鳴らすセバスチャン。2人は互いににらみ合い、セバスチャンはミアの車を追い越していきます。セバスチャンはジャズを愛するピアニストで。ロサンゼルスで自分の店を持つという夢を持っていました。しかしなかなか開店資金は貯まらず、こだわりが強い性格もあって単発の演奏の仕事もうまくこなすことができません。

その後セバスチャンのアルバイト先のレストランや、ホームパーティーで偶然再会する2人。ミアもセバスチャンもまだ夢の実現にはほど遠い状態でしたが、互いに夢を追うもの同士、2人は急速に惹かれ合っていきます。

2人はデートを重ね、ミアは恋人と別れてセバスチャンと付き合い始めました。なかなかオーディションに受からないミアは、セバスチャンに励まされて自分用の一人芝居を書き始めました。そしてセバスチャンは旧友のキースから誘われて、自分の理想とは程遠いものの、大衆ウケするポップなバンドに加入します。安定した収入を得られるようになったセバスチャン。しかし、ふたりの夢は次第にすれ違うようになり…

感想

ラ・ラ・ランドっていうタイトルって、ロサンゼルスと「空想の世界、白昼夢」という2つの意味があるんですね。他の方の解説を読んで初めて知りました。

映画の舞台はタイトルどおり夢追い人の街・ロサンゼルスです。じゃあ「空想の世界、白昼夢」のほうは何かというと、それは映画のラストに挿入される10分近い空想シーンのことを指します。「ラ・ラ・ランド」はこの10分間のために作られた映画といってもいいでしょう。

観客がこの空想シーンを主人公たちと同じくらい強い感情で味わえるよう、そこに至るまでの2人の春・夏・秋・冬のストーリーが描かれるのです。

女優志望のミアと、ジャズの店を開くという夢を持つセバスチャン。セバスチャンがレストランの演奏の仕事をクビになったまさにその瞬間という、なかなかどん底な状況で2人は出会います。お互い夢はあるけれど、もう長いことそれを追い続けていて未だに実現の糸口も見えていない状態。そんなイライラもあってか、最初はお互いに突っかかっているけれど次第に惹かれ合っていくという、ラブストーリーのお決まりの展開です。

ちなみにこの時点でミアにはすでに付き合っている恋人がいます。あまり詳しい説明はありませんが、2人のような夢追い人とは違い、ビシッとスーツを着こんでいて、ちゃんと定職についている男性みたいですね。

この恋人は“ザ・現実世界の住人”。ミアを自分のお兄さんとの食事会に連れて行って、お兄さん夫婦のしょーもない海外旅行の自慢話なんかに付き合わせちゃったりするタイプです。横にいるミアが心ここにあらずでも気づきもしない。うわー、つまんないデート。笑

夢追い人のミアは、何がよくて平凡で現実思考っぽい彼と付き合うことにしたんでしょうか。

私の勝手な妄想ですが、ミアにとっての彼は、大学中退して夢を追いながらアルバイトという不安定な生活のなかでの保険のような存在だったのではないでしょうか。「もし女優になれなかったら、彼と結婚すればいいや」。このへんは女の子のリアルですね。こういう心理をはっきり描いてしまうと夢を追うキラキラ感がなくなってしまうんですが、実際いざというときの保険がないと食うのに困るんだからしょうがない。(こうしたミアの、ある種自己中心的なキャラクターがラストに効いてきます

その一方で、ミアは自分と同じ夢追い人のセバスチャンに急速に惹かれていきます。自分と同じというより、セバスチャンはミアよりさらに浮世離れしたタイプですね。生活のために妥協するということができないタイプ。(多分)妥協して恋人と付き合っているミアとの違いがここにあります。

仕事として依頼されているのに、ほんの少しの間でも自分が弾きたくない曲を弾くということに我慢ができません。レストランでは指示された曲のリストを無視し、好き勝手な曲を演奏します。思いっきり自分の世界に入り込んでウットリと演奏していますが、夢から覚めた瞬間にクビを宣告されるセバスチャン。いや、同情の余地はありません。散々「勝手なことはするな」と念押しされていたんですから、当然の結果です。笑

セバスチャンの友人も言っていましたが、彼は自分のこだわりが強すぎて付き合いづらいタイプです。お兄さん夫婦の上から目線の言葉にも、人のいい顔でウンウン頷いているミアの恋人とは正反対。他人に合わせることが苦手。超苦手。

誰がどう見ても生活を共にするには不向きなタイプですが、ミアは自分の気持ちを抑えることができず、全力でセバスチャンとの恋に飛び込んでいきます。恋人の元を去り、セバスチャンのもとへ駆け出していくドラマチックなシーンが、“春”のパートのクライマックスです。つまらない現実から、夢の世界へ。幻想的な映像と美しい音楽が印象的です。

“夏”は晴れて恋人同士になった2人の、幸せな日々からスタートします。どちらもまだ無名だけど、互いに支え合ってそれぞれに夢を追う2人。ミアはセバスチャンに励まされて、自分でお芝居の台本を書き始めました。新しい可能性が見えてきてワクワクするミア。でも、その先にまぶしい夏が待ち受けている春とは違い、夏の輝きはその奥に翳りゆく秋の予感を孕んでいます

ミアにジャスを教えたり、ミアの芝居を見せてもらったり。大好きなミアとの生活を楽しんでいるセバスチャンでしたが、彼女が母親と電話しているとき、自分が定職についていないことが話題になっているのを耳にして、何か考え込むような表情を見せます。

世間ずれしているように見えるセバスチャンも、そのへんは意外とまっとうな感覚を持ち合わせていたようです。自分のお姉さんに言ったように、恋人の母親にも「俺は灰の中から蘇る不死鳥なんだよ!自分の好きでリング際にいるんだ、好きで人生に打たせてやってるんだよ!」って吠えることができれば100点満点なんですが、そこまでクレイジーにはなれません。

まぁ、それだけミアのことが大好きだったんでしょうね。セバスチャンはここから自分の道を脱線していきます。昔の友人の誘いにのって、自分がずっと馬鹿にしてきたような大衆ウケを狙ったバンドのメンバーになるセバスチャン。登場シーンからすると驚きの変わりようですが、自分が社会的に成功することが2人のためだと考えて決断したようです。

その仕事は大成功し、セバスチャンは安定した収入が得られるようになります。問題が解決して、2人の関係は安泰かのように思われました。けれどセバスチャンが自分らしくない決断をしてしまったことで、物語は一気に“秋”のパートへ進んでいきます。

2人で描いていた夢とは違うとはいえ、セバスチャンはミアより先に成功を掴みました。「2人で一緒に夢を追っている」ということを支えにしていた恋人たちにとって、これは大きな痛手です。秋のパートでは、セバスチャンに置いてけぼりにされてしまったミアの痛々しさが胸をつきます

少女漫画「ナナ」でも、先に国民的人気ミュージシャンになっていたレンとまだ無名のナナとのギクシャク感がリアルに描かれていました。こういう展開って、けっこう多くの人にとって経験があることなのではないでしょうか?カップルのどちらか片方だけが、有名になる・お金持ちになる・就職する・進学する…etc。生じる格差の程度は人によるでしょうが、わりと青春時代のあるあるエピソードだと思います。

というより、この映画全体が「あるあるor王道」で塗り固められていますよね。それはセオリーにのっとって映画をヒットさせるため…というのもあるかもしれませんが、どちらかというと観客の大多数が主人公たちにスムーズに感情移入できるようにという狙いがあるような気がします。「セッション」のアンドリューみたいに病的に自分を追い込む経験をした人よりも、将来の夢とか恋愛とかで悩ましい思いをした人のほうが多いでしょうし。

あなたは自分の夢を忘れてしまった!とののしるミアですが、それはセバスチャンのためを思ってというより「私は無名だけどずっと初心を貫いている!だから人間的にあなたに負けていない」と吠えているようにも見えます。自分は彼女のために夢を諦めて今の稼げる仕事を選んだという認識のセバスチャンは、攻撃的なミアの態度に戸惑います。

確かに経済的に不安定であることは辛いでしょう。しかしミアのような女性(いざとなれば帰れる実家があるし、自ら大学を中退して夢を追う道を選んだということを誇りにしている女性)にとっては、それ以上に同情されたり惨めな思いをさせられたりすることが耐えられないのです。

「君は俺を見下して安心していたかったんだろ」と吐き捨てるセバスチャンはある意味的を得ています。セバスチャンが先に成功してしまったことで、ミアは「自分には本当に才能がないのかもしれない」と思わされることになりました

「つまらない仕事はできるだけやりたくない」というスタンスのセバスチャンと違って、ミアはどんなにしょうもないドラマのどんなに小さな役でも積極的にオーディションを受けてきました。有名人にお近づきになるために、くだらないパーティーにも頑張ってオシャレして顔を出していました。

自分はセバスチャンよりも現実を見ていて、そんな泥臭い努力を続けてきたつもりだった、なのにちょっと妥協しただけのセバスチャンがトントン拍子にスターの階段を駆け上がっていったのです。彼の姿を見て「ああ、やっぱり本当に才能がある人は簡単に成功できるんだ。私みたいなのはどんなに努力してもダメなんだ」と思っても不思議ではありません。

ミアはセバスチャンを見下したかったわけではないでしょう。でもミアにしてみれば、セバスチャンが自分より先に成功することには耐えられなかったのです。それはミアの自信を奪ってしまうことになるから。

その後ミアはずっと準備してきた一人芝居の舞台に立ちますが、観客席はガラガラ。芝居を観た客が帰り際に散々ミアの芝居をこき下ろすのを耳にしてしまいます。もうミアのプライドはズタズタでした。セバスチャンが引き止めるのを振り切って、車を走らせてロサンゼルスを去り実家に帰るミナ。

結局このときの一人芝居を観ていた業界関係者がミアに目をとめ、セバスチャンの後押しもあって、ミアは大きな映画作品のオーディションを受けるチャンスを掴みます。これ以上傷つくのが怖くてヤダヤダと駄々をこねるミアを叱り飛ばして、セバスチャンはミアをロサンゼルスに連れ戻します。おかげでオーディションはうまくいき、終わったあとは明らかに手応えを感じている様子のミア。

このときミアとセバスチャンは“春”のパートであの夢のようなひとときを過ごした天文台の外のベンチに座っています。天文台の裏側の、何とも侘しい景色

「私たちどこにいるの?」とつぶやくミア。もちろんこれは地理的・空間的にどこにいるのかを聞いているのではなく、いわば2人の季節は春夏秋冬のどこにあたるのかという質問です。季節は“秋”の終わり。つまりそれは2人が一緒にいられる最後の時間でした

“冬”は2人の物語の本筋ではなく、後日譚のような位置づけです。女優として有名になって、家庭も持ったミア。ミアと別れて自分の原点に立ち返り、長年の夢だったジャズバーのオーナーになったセバスチャン。それぞれ別の方向へと分かれていった2人の道が一瞬だけ再び重なり合った、ある夜の出来事を描いています。

偶然、セバスチャンの店に夫婦で訪れたミア。テーブル席のミアを見て、明らかに動揺するセバスチャン。セバスチャンはおそらく本来予定していた曲ではなく、2人が出会った夜に弾いていた、思い出の曲を弾き始めます。

そこからラ・ラ・ランド…“もしかしたらあり得たかもしれない2人の日々”の空想シーンが始まるのです。

このシーンが「ミアの空想なのか?セバスチャンの空想なのか?」は作中ではっきりとは描かれていません。2人が同じような可能性の世界を描いていた、というのもロマンティックですが、私はミア視点なんだろうなと思っています

私は楽器の演奏ができないのでよく分からないのですが、ぼんやりと思考がラ・ラ・ランドに迷い込んでいる状態って、音楽を演奏するときより聞いているときのほうがしっくりくる気がします。特に昔の恋人に思いがけず再会して、彼がステージの上で自分との思い出の曲を弾いてくれているシチュエーションでは、隣にいる夫のことを忘れて自然と2人の思い出に浸ってしまうのでしょう。

そしてその空想の内容は「2人が出会った夜にセバスチャンにキスをされる・一人芝居の劇場は満席で拍手喝采を受ける・セバスチャンも成功した芝居を見てくれている」…と、ミアにとって現実よりも美化されたものになっています

さらに空想は広がっていきますが「セバスチャンはパリで撮影を始めるミアについてきてくれる・2人は結婚して子どもが生まれる・セバスチャンはパリのジャズクラブで演奏の仕事につく」というのも、ミアにとって都合のいい展開なのではないでしょうか。

自分は夢を叶えて女優として大成功!セバスチャンは基本的に自分に合わせて行動してくれて、なおかつジャズクラブでちゃんと安定した収入を得て良きパパになってくれる…という。ミナの「こうだったら良かったのにな」は、かなり自分勝手な内容にも思えます。セバスチャンのロサンゼルスでジャズバーを開くという夢はしれっとスルーされていますし。

ここで思い出されるのは、2人の春夏秋の物語が“ミナがやっと成功をつかむ可能性が出てきた”ところで終わりになったことです。それはセバスチャンが言ったように、これからミナが仕事に集中しないといけないから(必然的に一緒に過ごす時間が減ってしまう)というのも理由の一つかもしれませんが、実際には“ミナの物語のなかでセバスチャンがその役割を終えたから”というのが大きいのではないでしょうか。

セバスチャンはミナにとって、青春時代ー夢を追っていた時代の恋人だったのです。

“春”のパートでは停滞していた生活から救い出し、夢のようにワクワクする世界に連れて行ってくれました。“夏”のパートでは励まし支えてくれて、自分のためには大事な夢も捨ててくれる(そして有名でリッチになってくれる)パーフェクト彼氏でした。“秋”のパートではケンカもしましたが、結果的には自分が夢を諦めかけてていたところを間一髪で引きとめて、栄光の道へ背中を押してくれました。それがセバスチャンの最後の、そして最も重要な役割でした。

そしてミナは自分の足でその道を歩いていくことができるようになり、もうこれ以上セバスチャンという存在を必要としなくなりました。

こう書いてしまうと、空想シーンを含めてミナが自己中心的でまるでセバスチャンを利用しているだけだったみたいに見えますが、人が人生のある段階で他の誰かを必要とすることってあると思います。ただその段階が過ぎて次のステップにいくとき、その人はもう必要なくなってしまうというだけなのでしょう。

映画「STAND BY ME ドラえもん」で、未来の世界に行ったのび太が大人になった自分をドラえもんに会わせてあげようとしますが、のび太青年は少し考えてからそれを断ります。「ドラえもんは君の…ぼくの子どもの頃の友達だからね」。私はこのシーンが大好きです。ドラえもんはいつかのび太が大人になったら未来の世界へ帰っていきます。「銀河鉄道999」のメーテルは、まだ母親の面影を追う少年だった頃の鉄郎と旅をし、最後には成長した彼のもとを去ります。青春って、その間にしか一緒にいられない人がいるからこそ切ないんです

ミアにとっては、多分セバスチャンもそういう存在だったのでしょう。ミアは自分勝手かもしれない。セバスチャンは一度自分の夢まで諦めて彼女に振り回されてしまったのかもしれない。でも少なくともこの映画ではセバスチャンも最後に自分の夢を叶え、お店にミアが考えた店名とロゴをつけて、彼女と過ごした青春時代から今も輝く何かを得ていたことが分かります。

青春の短いひとときしか一緒にいられなかった人でも、相手の思い出はずっと自分の心の中にあります。いちどラ・ラ・ランドに迷い込めば、そこでいつでも会うことができる。そうやって特別な誰かとの思い出を生涯大切にしている人もいるでしょう。

「ラ・ラ・ランド」は確かに切ない映画です。「もしかしたら、2人で幸せになれる未来があったのかも…」と考えると、もう巻き戻せない時間に胸が締めつけられます。

でも夢が叶うまでの、限られた時間での恋だったからこその輝きがそこにはあります。何度観てもウットリするような映像と音楽、そしてダンスで、この映画は誰の胸にもあるそんな輝きを表現してくれているのでしょう。

…まあ、私はどちらかというと「セッション」のほうが共感できますけどね!笑

「ラ・ラ・ランド」ではちょい役だったJ・K・シモンズが、咆哮をあげたり椅子をぶん投げたり圧倒的な存在感で暴れまくってますよ。これが本当のJ・K・シモンズだ

(今回めちゃくちゃ長文で書いてしまいましたが、一番いいたかったのはコレです。笑)

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

コメント

タイトルとURLをコピーしました