「グラン・トリノ」ー受け継がれていく“男らしさ”ーネタバレ感想

ドラマ

正直に白状すると、若い頃のクリント・イーストウッドの出演作品は一本も観ていません。だって西部劇って…世代が違うし。

この感想を書くためにクリント・イーストウッドの出演作品で検索してみて、ギリギリ「マディソン郡の橋」は序盤だけ観たことあったな、と思い出しました。でもピンとこなくて観るのを止めてしまったんですよね。不倫ものって、そのシチュエーションに酔ってるだけの気がして今一つ感情移入できません。(この作品を好きな人がいたらごめんなさい)

私にとってクリント・イーストウッドといえば「インビクタス(監督作品)」「ミリオンダラー・ベイビー」そしてこの「グラン・トリノ」です。

ただこの映画に関していえば、若い頃のクリント・イーストウッドをよく知っている人のほうが、ラストの感慨が深いみたいですね。この名作をめいっぱい味わえるという点で、昔からのイーストウッドファンは羨ましい限りです。

この映画はとにかくラストが素晴らしい!ということで、思いっきりネタバレの感想いきます。

鑑賞のまえに

2008年製作/アメリカ

時間:116分

監督:クリント・イーストウッド

出演:クリント・イーストウッド、ビー・ヴァンなど

・クリント・イーストウッドの偉大さが分かる、紛れもない名作

・直接的ではありませんが性暴力に関する描写があるので鑑賞には注意してください

・正義とは何かに対する一つの答え。すべての人に観てほしい現代のヒーロー映画です

あらすじ

現代のアメリカ。元軍人で現役時代は自動車工として働いてきたウォルトは、朝鮮戦争でのトラウマや家族との確執に苦しんでいました。さらに古くからの街の住人は去っていき、周りはアジア系の家族ばかりになってウォルトは日々生きづらさを感じています。

そんなある日、彼は自分の愛車グラン・トリノを盗もうとしたモン族の少年タオと出会います。内気はタオは実はウォルトの隣家の息子でしたが、アジア系のギャングに命じられて仕方なくウォルトの家に盗みに入ったのでした。ウォルトは最初はタオやその家族に対して偏見や敵意を持っていたのですが、タオとの出会いから彼らとの交流が始まり、次第に打ち解けていきます。ウォルトはタオに家の修理の仕方や、人との付き合い方などを教え、彼の父親のような存在になっていきました。しかしタオがグラン・トリノを盗むのに失敗したことに激怒したギャング達が、タオの家族に嫌がらせをするようになり…

感想

“男らしさ”とか“”女らしく”とかいう言葉は、もはや公の場では口にするのも憚られる時代になりました。それはそれで良いことだと思っています。ほとんどの場合は相手の気持ちを無視して、発言する側にとって都合のよい役割を押しつけるために使われていますしね。

でも“男らしさ”という言葉からイメージされる、古い時代のヒーロー達への憧れというものはあります。あまりメジャーでない映画で恐縮ですが、私はとにかく「ミッドナイト・ラン」の主人公ジャックを演じるロバート・デ・ニーロが好きでした。

身なりに構わず、口が悪くて女に対しても不器用。でも仕事をさせれば誰よりも腕のいいプロフェッショナルで、人情家でもある。ジャックはまさにハードボイルドを絵に描いたような男です。父や兄と一緒にあの映画を観ていた子供時代の私は、あれが“男らしさ”というものだと理解しました。

ちょっとタイプは違いますが、手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」の主人公も私の理想です。弱きを助け、強きをくじく孤独なヒーロー。ブラック・ジャックはいつも人から憎まれる損な役回りですが、本人はそんなことどこ吹く風です。ちまちま損得勘定ばかりしているなんて“男らしい”とはいえません。本物の男にとって、損得よりも大切なのは自分の信念やスタイルを貫くことなのです

脱線してしまいましたが、「グラン・トリノ」の主人公ウォルトも、間違いなくデ・ニーロやブラック・ジャックと同じく男の中の男です。戦争の英雄、アメリカの産業を支えた誇り高い自動車工。西部劇のヒーローの面影を残すクリント・イーストウッドが演じればこそ、古き良きアメリカの“男らしさ”を体現したようなキャラクターになっています。

ただしウォルトが生きているのは21世紀。妻の葬式では孫娘がピコピコ携帯ばかりいじくり、街中を“男らしさ”というものを勘違いしたストリートギャングのアホガキ共が闊歩しています。ウォルト自身も息子夫婦からは完全にただのおじいちゃん扱いされていて、老人用の数字がデカデカと書かれた固定電話をプレゼントされてしまう始末。何て生きづらい時代。

さらにウォルトが住む町の自動車産業が廃れたために、そこで生計を立てていた白人系の家族は次々と町を出て行き、ウォルトの家の周りはアジア系の住民が多く住むようになっていました。こうしてウォルトという男が時代に取り残されている様子が、嫌でも印象づけられます。

そう、この映画は「ヒーローの時代は終わったのか?昔の“男らしさ”は現代では無価値なのか?」を問うストーリーなのです。

そして最も強く“男らしさ”というものに疑いを持っているのは、おそらくウォルト自身でしょう。なぜなら彼は朝鮮戦争で多くの功績を残した英雄ですが、自分が人を殺して勲章をもらったという事実を心の底から嫌悪しているからです。

ひと昔まえのマッチョなヒーローであれば、敵を倒すことに躊躇いなんてないでしょう。しかしウォルトは皆から「かっこいい、男らしい」と称賛された行為が、実際にはまだ子供ともいえるような若い兵士の顔を銃で撃ち抜くという、悪魔のような所業だったと知っています。ヒーローでありたいと願って生きてきて、実際には自分がやったことは紛れもない悪だった。それが“男らしさ”のある種の現実であることは間違いありません。

ウォルトは男らしくいたいのと同時に、正しい人間でありたいのです。しかしウォルトが若かった時代の“男らしさ”は実際には正義と両立することはありませんでした。信念も思いやりもない若い連中を嘆かわしいと思いつつ、ウォルトは「じゃあ正義の名の下に人を殺してきた自分は正しいのか?」という問いを突き付けられて苦しんでいます。

老兵はその苦しみを抱えたまま、後はただ去るのみかと思われました。しかし、ウォルトは真の“男らしさ”とは何かをもう一度考え直すチャンスを与えられます。

ウォルトの隣の家に住むアジア系の家族の中に、ちょっと内気そうな少年タオがいました。仕事にも就かず、何となく庭の片隅で土いじりをする日々。そんな宙ぶらりんな状態のタオに、同じくアジア系のストリートギャングたちが目をつけます。「他のギャングから守ってやる代わりに、俺たちの仲間になれ」と誘いかけ、入団の儀式としてタオにウォルトの愛車グラン・トリノを盗んでくるよう命じるのです。

当然のことながらウォルトはブチ切れてタオを撃退するのですが、ギャングに言われるがままに盗みに入った少年タオのことが放っておけないと感じ、やがて父親のように彼を教え導いていくことになります。

タオと行動を共にしながら「男とは何か」を教えるようになってから、ウォルトは見違えるようにイキイキしていきます。「これが男の仕事だ」「これが男同士の付き合いだ」「気になる女の子に対してはこう振舞うんだ」と語るウォルト。口先だけではなく、タオの姉スーがチンピラに絡まれているときには颯爽と現れ、西部劇のヒーローさながらにチンピラたちを凄みで追い払ってしまいます。

そこには確かに、すでに忘れ去られてしまっていた“男らしさ”という美学がありました。素直なタオは着実にウォルトのスタイルを吸収していき、少しずつ自分に自信がもてるようになっていきます。

父と子よりも年の離れた2人の男の心温まる交流。弱い立場の人たちを守ってくれる、頼もしくてかっこいいクリント・イーストウッド。ストーリーが進むにつれて、映画を観ている鑑賞者の気持ちも高ぶっていきます。「ああ、やっぱり“男らしさ”っていいよね」

しかし、かつての自信を取り戻したウォルトに、ここでもう一度あの問いが突き付けられることになるのです。正義の名の下に人を殺した自分は正しかったのか?どうすれば“男らしさ”と正義が両立するのか?

タオにグラン・トリノを盗むよう命令したギャングたちは、計画に失敗したばかりかウォルトと親しくなって自分たちと手を切ろうとするタオに激怒しました。最初はささやかな嫌がらせでしたが、ウォルトの反撃にあいギャングたちの報復行為はエスカレートしていきます。それに対して、タオを悪から守ろうと躍起になるウォルト。暴力が暴力を生み、事態はどうしようもなく悪化していきます。

そしてついにギャングたちの暴力は一線を超えました。ある夜タオの家はギャングたちに銃弾を浴びせられ、タオの姉スーは拉致されて強姦されてしまうのです。

ウォルトはボロボロになったスーの姿を見て一瞬で悟りました。自分は若いときと全く同じ過ちを犯したのだということを。正義の行いだと信じて、怒りのままに暴力を振るった。その結果として、また一人若者が犠牲になりました。

ひと昔まえのヒーローであれば、大切な人を傷つけられた怒りに震え、何の躊躇いもなく武器を手にして敵のアジトに乗り込んでいくでしょう。そして敵を皆殺しにしようとするはずです。実際、ウォルトから男らしさの教育を受けたタオはそれを実行しようとしました。

しかしウォルトは深く考え込みます。自分自身の暴力によって生涯罪の意識に苦しめられてきた老兵は、ここでもう一度本当の男らしさとは何か、正義の行いとは何かについて考えるのです。

ウォルトはタオを置いて、たった一人で敵のアジトへ出かけていきました。酒を飲んでバカ騒ぎをするギャングたちは、外に立つウォルトの姿に気づいて銃を手にわらわらと出てきます。ウォルトはギャングたち一人ひとりの顔をじっと見据え、余裕たっぷりの表情で彼らを挑発します。ギャングたちは気色ばみ、窓からも銃を構えてウォルトに狙いをつけました。いつの間にか近所の人たちも騒ぎを聞きつけて、戸口に顔を出しています。

自分を狙う沢山の銃を見ながら、ウォルトは冷静にこう告げました。「タバコに火を点けたい。ライターを出してもいいかな?」そして懐に手を入れるウォルト。ギャングたちに緊張が走るのが分かります。ウォルトは一瞬彼らと視線を合わせた後、ガンマンの早撃ちのような俊敏さで懐の手をさっと抜きました。当然その手には銃が握られていると考えたギャングたちはパニックになり、一斉にウォルトに銃弾を浴びせます。静かに崩れ落ちるウォルトの体。そして…カメラはその手に握られている、小さなライターをアップで映し出すのです。

ウォルトは丸腰でした。ギャングたちは無抵抗の相手を全員で銃殺したとして、駆けつけた警察官たちに逮捕されました。すべてが終わってから現場に駆けつけたタオとスーは、同じアジア系の警察官に事の経緯を教えられます。「奴らは丸腰の相手を撃ったんだ。目撃者も大勢いる。長期刑になるはずだ」。そこで初めてタオは一人で乗り込んでいったウォルトの意図を知り、ウォルトの死から真の“男らしさ”とは何かを知るのです。

これが暴力と殺人の記憶に苦しめられてきたウォルトの、そして正義の名の下に敵を倒すヒーローを演じてきたクリント・イーストウッド監督の答えでした。

この“敵を撃ち殺すのではなく、敵に撃たせる男らしさ”というのは、否が応にも漫画「ヴィンランドサガ」で、主人公トルフィンが和平交渉のために兵士たちから100発殴られるというシーンを思い出させます。漫画全体も面白いですが、特にこのシーンは心震える名場面です。怒りに任せた暴力は誰も幸せにしない。暴力はあくまでも最後の手段で、それを避けるためならどんな痛みにも耐えるというのが、主人公の信念なのです

この2つの作品に限らず、今は多くの映画・漫画・小説・アニメが“暴力の否定”というテーマを打ち出しています。そしてそれを体現するキャラクターたちは、これまで描かれてきたどんなヒーローにも劣らずかっこいいんです。

多分彼らを生み出しているクリエイターたちの子供時代には、画面の中のヒーローたちは普通に敵を殴り倒していたはずです。アンパンチからかめはめ波まで。どんなに優しそうなヒーローであっても、暴力は不可避のものでした。それが今では、敵を殴らないという新しいヒーローの形が生まれています。子供達に「敵を殴るより、もっとかっこいい生き方がある」と教えてくれています

“男らしさ”は進化し、次の世代へと受け継がれていきます。タオはウォルトの生き様から学び、立派な男に成長していくでしょう。ウォルトは自分の一生を通じて「真の男らしさとは何か。正義とは何か」という問いに向き合い、そして見出した答えを後継者に残すことができたのです。

最後に、漫画「勇午ーインドシナ編ー」から私の大好きな名セリフを。

「正義とは悲しみから学ぶことだ。悲劇を繰り返さぬ方法を」

それが時代を問わず、すべてのヒーローたちの存在理由なのかもしれません。

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

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