最近、気づけばポール・ダノの出演作ばっかり見てます。
中毒性あるよね、ポール・ダノ。
そして中毒性あるといえば、この映画。スイス・アーミーナイフというのが、日本で言うところの十徳ナイフ?万能ナイフ?缶切りとか色々付いてるアレですが、同じように何にでも使えるという意味での「スイス・アーミーマン」らしいです。
まあ、「マン」って言っても死体なんですけどね。
で、それを演じてるのが魔法使いのハリー・〇ッターなんですけどね。
いや、どんなジョーク???
○ッターが丸出しのお尻からオナラ出しながら、大海原を突き進んでいくんですよ。これだけ聞いたら、C級パロディ感丸出しの事故物件です。
…ここまで聞いて「あ、これ観るのやめよ」と思った人。ひき止めません(笑)
私だってこの映画を実際に観るまでは、そんなもん見たいとは思わなかったです。
でも、一回観ちゃうとね、クセになるんです、これが。笑いという意味ではなく、感動という意味で。……もしも人からそんなこと聞かされたら、私も絶対信じませんけどね。
というわけで、観るのも泣くのも自分次第。最悪で最高の感動作「スイス・アーミーマン」のネタバレ感想、いきます。
鑑賞のまえに
| 2016年/アメリカ製作 時間:97分 監督:ダニエル・シャイナート、ダニエル・クワン 出演:ポール・ダノ、ダニエル・ラドクリフ、他 |
・けっこうお下劣です!閲覧注意!
・なのに何故か映像と音楽は美しい!この独特のバランスはさすがA24
・内向的な人は「この映画の言いたいこと、何か分かる…」ってなると思います。私は思いました。
感想
映画の始まりは、無人島に漂着した主人公が絶望し、首をつって死のうとするシーン。
そこで砂浜に打ち上げられた死体を発見。その死体がなぜか勢いよくオナラを出したことで、ジェットスキーのようにそれに乗って海を渡り、島を脱出することができた…というスタートです。
いや、スタートダッシュ勢いありすぎでしょ(笑)
勢いつきすぎて冒頭数分で観客を振り落とすことも恐れない、さすが「ディック・ロングはなぜ死んだのか」の監督。真のクリエイターはこうでないと。
映画はその後も、独自の不思議ワールドを展開。謎の死体は体のとある部分が方角を示したり、口から飲み水を出したり、ロケット弾を発射したりと、まさに万能ツールとして縦横無尽に活躍し、主人公ハンクはその能力を駆使して、辿り着いた森の中でサバイバルしていきます。
基本的にこの映画観てて「そんなことありえねーだろ」っていうツッコミは無意味です。
ネタバレしちゃうと、この後に、森を抜けるとそこはハンクがずっと片想いしていた女性の家の庭だったっていうファンタジー展開が来ますからね。
リアリズムが正義だと思って観てると、ただのC級映画で終わっちゃうんで。寓話だと思ってください。「この映画って何が言いたかったんだろー」と考えて楽しむ系です。
この「スイス・アーミーマン」で真剣に考えるべき(…だと私が思っていること)はただ一つ。メニーって結局何だったんだろう?ってことです。
この謎を解くためにヒントになりそうな要素を、今思いつく限りでピックアップしてみました。
・ハンクが無人島に独りぼっちになって死にかけているときにメニー登場。このときは完全な死体である。
・ハンクと人里離れた森で行動を共にするうちに、少しずつ生き返ってくる。
・方向を示したり水を出したりと、万能なツールでもある。
・世間のことを全然知らずにピュアである。
・ハンクがずっと好きだったサラの写真を見て、メニーも彼女に恋をする。
・現実のサラ(人妻&子持ち)を知って、自分が恥ずかしくなり、再び死ぬ。
・テレビのレポーターか何かが、ハンクとメニーを間違える。
・ラストにハンクが人前でオナラをして自分の殻を破ったとき、メニーは再び息を吹き返す。
ザっと挙げただけでも、かなりハンクとメニーの関係が見えてきますよね。
メニーという不思議なキャラクターは、どうやらハンクの内面を擬人化した存在のようです。それをどういう言葉に当てはめるとしっくりくるかは、人によって違うかもしれません。
ハンクの心?
想像力?
本当の自分?
私は何となく、ハンク自身の“心の声”という表現が一番近いかなと思いました。漫画「ブルーロック」の蜂良が大好きなアレです。
心の声が生きるか死ぬか。そこには“社会との距離感”が大きく関わっています。
社会化される前の人間の中では、心がのびのびと声を上げていて、人はそれに従って思うがままに行動できます。森の中のハンクとメニーの様子は、幼い子どものような自由な発想や万能感、イマジナリー・フレンドの存在を表現しているのでしょう。
反対に映画の冒頭、ハンクが無人島にひとりぼっちで、メニーも死体となっていた状態は、無理に社会に適応しようとした結果、ハンクが自分自身の心の声を殺してしまったということを示しているのではないでしょうか?
必死に周囲に合わせようとして心の声を無視しているうちに、人は自分を見失い、かえってストレスと孤立感を深めてしまいます。
この映画の中にたびたび出てくるオナラのシーンは、「社会に適応するかどうか」の一つの象徴です。
人に隠れてオナラをする=社会に適応する
人前でオナラをする=社会に適応しない
…いや、もちろん隠れてやったほうがいいんですよ(笑)人間はいつまでも森の中で心の声を相手にひとりぼっちで生きていくことはできないんですから、ピュアな子どもも成長すれば、ある程度は社会化されなくてはいけません。
映画の中盤、サラに恋をしたメニーに対して、ハンクが一生懸命に恋愛のマナーについて教えるシーンがあります。心の声(ってゆーか欲望)全開で屈託のないメニーに対し、ハンクは相手の女性が不快に思わない距離の取り方、言葉を使って相手の気持ちに訴えかける方法を伝えます。
相手を愛し求めてやまない心の声をちゃんと生かしつつ、適度な社会化によって人とも上手く繋がろうとすること。恋愛は、自分の心の声と社会への適応のバランスの取り方を学ぶ最上の機会なのかもしれません。
ハンクとメニーが手作りで再現したバスでのサラとの出逢いのシーンは、息を飲むほどの美しさでした。この瞬間こそが、ハンクの人生において最も重要な瞬間であり、それはハンク自身にも分かっています。
ハンクの心の声は、このとき確かに「この人とつながりたい!」と叫んでいました。けれどハンクは自信の無さからそれに応えられず、自分の心の声を押さえ込んでしまいます。思えば、それが映画冒頭のようにメニーが死体になっていく過程のスタート地点だったのでしょう。
メニー=心の声が死ぬのは、ハンクが自分に自信を持てないからです。心の声が持つ無限のイマジネーションと万能感は、一滴の「恥」の感覚であっという間に消え失せてしまいます。映画の後半、サラを自分の恋人だと思って盛り上がっていたメニーは、実は彼女はとっくに結婚していて、自分はただの変態チックなストーカーだと自覚したとき、「サラには言わないでくれ」と呟いて死んでいきます。
それこそ、ハンクが最も恐れていたことで、彼女を遠くから見つめるだけで声もかけられなかった理由です。自分が彼女にまったく相手にされない男だという現実を突きつけられて、自分を恥じること。そうなれば、自分の中のメニーにあたる部分が傷ついて死んでしまうと本能的に分かっていたからです。
人は他人から拒絶されると、自分の価値を信じることができずに心が死ぬ。だから拒絶されないような人間になるべく、必死に社会に適応しようとします。
けれど社会に適応しようとすればするほど、自分の心の声を押さえ込まないといけない場面が増えていきます。そうしているうちに、結局のところ心は死ぬ。人間の心と社会との関係性は本当に厄介です。
映画のラスト、現実のサラと対面したことでメニーが自分を恥じて再び死んでしまったとき、ハンクは大きな喪失感に打ちのめされました。サラが自分を軽蔑の目で見ており、サラの夫や警察官、女性リポーター、さらには自分の父親までもが嫌悪を露わにしています。それは映画冒頭のような、自分の内面を表現できないことによってジワジワと迫ってくる孤立感ではなく、はっきりと人から拒絶される恐怖です。
ハンクはメニーを連れて森に逃れますが、それによって追ってきた人々に、2人が作り上げてきた世界=自分の内面をすべて見られてしまうのです。
架空の友人たちを招いたパーティー、サラとの出会いを何度もやり直したバスの中。木の枝や葉っぱ、木の実などで作り上げられたそれらのセットを警察官やサラの夫がジロジロ見る姿に、「チクショー、全部見られちまう」と呻きをもらすハンクの痛みは、誰にでも共感できるでしょう。
人は、自分だけの内面の世界もしっかり持っているから、他人だらけの社会で生きられるのだと私は思います。もしも内面をすべて社会に対してさらけ出し、その距離がゼロになってしまったら…普通なら、ハンクの精神が崩壊してもおかしくありません。
心が死ぬことが怖くてずっと逃げ回っていたハンクは、最後にすべてをさらけ出して海まで追い詰められることになります。そこで警察官に手錠を掛けられるのですが……
そこでまさかの盛大なオナラ。
もう、その場にいた全員がうんざりという表情を見せますが、これはすでに死体となってしまったメニーへの、ハンクからのメッセージでした。
森の中で2人が人と人の関係について語り合っていたとき、メニーは友達が自分に隠れてオナラをすることを「寂しい」と言っていました。
「友達がオナラをするところを僕に隠しているなら、他にも隠し事があるかもしれない」
もちろん、人はどんな大親友にだって他に色々なことを隠しているでしょう。ハンクは自分の父親にさえ素直な気持ちを伝えることができず、いつしか誕生日のお祝いすらスマホの自動メッセージに任せるようになっていたのですから。
人との距離を適度に保つことが、社会への適応には必要です。でも、それは社会化される前の純粋な願望を持つメニーにとっては「寂しいこと」なのです。
自分の恥ずかしい内面もすべて他人に見られてしまった今、ハンクはそれまでの「変人だと思われたくない」「社会に適応しないと」という気持ちを捨てて、片思いしていたサラもいる場でオナラをしてみせます。
当然全員にドン引きされるのですが、そのとき波打ち際で横たわっていたメニーのほうからもオナラの音が…。それは映画の冒頭を思い出させる光景でした。最初は無人島で独りぼっちで死のうとしているとき、次には周囲から変人扱いされて社会的に死んでしまったとき、ハンクが絶望のどん底に落ちたとき、まるで不死鳥のようにメニーは蘇ります。
平常時では周囲に合わせること、社会に馴染むことが、人間の優先事項です。でも追い詰められてすべてを失ってしまったと思ったときには、それまで抑え込んでいた自分自身の心の声が噴き出して、人間をしぶとく生き永らえさせます。
ハンクが自分の殻を破って人前でオナラをしてみせたことを喜ぶように、生き返ったメニーが満面の笑顔でオナラをしながら波の上を滑っていくシーン。そこだけ見たら「ハリー・〇ッター、何してるんだろう…」なんですが、ここまでのハンクの「ずっと社会に受け入れられたいと思ってた、でもやっぱり僕には自分の内面の世界が愛おしい」という葛藤を見守ってきたからこその、感動のラストです。
そのへんの葛藤とか何も知らないはずのハンクの父親も、何かつられて笑い出しちゃってるし(笑)それだけ謎の爽快感がある演出でした。
今思うと、この映画は最初と最後が海のシーンで、中盤はずっと深い森の中なんですよね。森の奥は、そのままハンクの内面奥深くの世界。広々とした海は、自分自身の外側の世界を象徴しているのかなぁと感じたり。
ハンクがメニーに乗って大海原を進む様子は、息を吹き返したパワフルな自分の心を携えて、世の中を突き進んでいくことを表しているのかと思うと、ちょっと胸熱です。
と、ちょっと感動テイストで書いてきましたが、何度も言いますがかなりお下劣満載の映画です。「良い映画なんだ~」という期待感だけで、うっかりカップルで観たりすると……
いや、「この映画いいよね!」で盛り上がれる相手だったら、もう結婚するしかないって感じですけど。
頑張って周りに合わせて、本当は見せたいと思っている自分の内側を必死に隠して。みんな多分、どこかでハンクに共感できるところがあると思います。ちょっと心が疲れたとき、笑いと一緒に勇気をくれる映画です。自分の世界→外の世界のスイッチを入れなきゃいけない、長期連休明けとかに観ると沁みるだろうなぁ…
最後まで読んでいただき、ありがとうございました♪

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