すべてを昇華する芸術家の生きざま~映画「ブルータリスト」ネタバレ感想~

ドラマ

アカデミー賞で主演男優賞を受賞した作品ですね。

同じ年、私が大好きなティモシー・シャラメが主演男優賞を獲れるか?!と期待していたので、エイドリアン・ブロディが受賞したと聞いたときはショックでしたが…

作品を観たら、完全に納得でした。

うん、これは…ちょっと勝てないかな。笑

映画自体も素晴らしいのですが、ラストのワンメッセージのために3時間以上の長尺を見せるというのは、なかなかできることじゃないと思います。

それを可能にしているのが、エイドリアン・ブロディの華やかな存在感と演技力。

そして、戦後を生きるユダヤ人建築家の姿に見え隠れする、「戦場のピアニスト」のシュピルマンの影。

それも含めて、この役はエイドリアン・ブロディ以外にありえません。

個人的には、まるで「戦場のピアニスト」から続く物語のように観ることで、この映画の深みがさらに増すと思っています。

あ、でもあっちは実話ですが、「ブルータリスト」のラースローは架空の人物ですので、お間違いのないように!(私も最初、完全に伝記映画だと思ってました…)

それでは驚くべきフィクション、「ブルータリスト」のネタバレ感想いきます。

鑑賞のまえに

2024年/アメリカ・イギリス・ハンガリー製作
時間:215分
監督:ブラディ・コーベット
出演:エイドリアン・ブロディ、フェリシティ・ジョーンズ、他

・架空の建築家の半生を描いた物語。「え、実在の人物の伝記じゃないの?」と驚くリアリティ。

・物語の大きな鍵としてホロコーストの問題がありますが、残酷描写はなし。強制収容所から解放された後の、それでも続くユダヤ人の生きづらさが描かれています。

・劇的描写が少ないゆえに、3時間以上の尺は確かに長く感じる!でも観る価値のあるラストです。

感想

芸術家にとっての最大の願いは何か。

それはやはり、自分の才能の頂点といえる傑作を生み出すことでしょう。

「ブルータリスト」をホロコーストものの一つと捉える人もいると思いますが、私はこの映画が描こうとしているのは“芸術家の生き様”だと考えています。

ユダヤ人としての苦しみも、ラースローの人生において重要な要素であることは間違いないでしょう。しかし、私はこの映画を最後まで観たときに、彼はユダヤ人である以上に芸術家なのだと感じました。

…とは言っても、215分の映画のほとんどの時間は、ユダヤ人であるがゆえの彼の苦悩を描くことに充てられています。

まず家族に会えない。

もう妻もとうに収容所から解放されているのに、何年もの間、妻はラースローの待つアメリカに来ることができませんでした。

ラースローは親戚のつてを頼って裏ルートで渡米できましたが、戦後の混乱が続くヨーロッパを旅してアメリカへと渡ることは、当時容易なことではなかったのです。

そして妻を待ち続けているラースローのアメリカでの暮らしも、決して楽なものではありません。

ユダヤ人・ラースローの生活を一言で表現すると、「寄る辺がない」。

まるで風に吹かれてあちらの角からこちらの角へと漂う、紙くずのようです。

故郷では高名な建設家である彼も、アメリカという異国では、英語もろくに話せないただの異邦人。アメリカですでに生活の基盤を築いていた親戚の好意によって部屋を与えられ、小さな家具屋で暮らし始めますが、そこで起きた仕事のトラブルの責任を押し付けられてしまいます。

依頼者が父親に無断で書斎を改装しようとして、突然帰宅した父親が「何も聞いていない!」と激怒したのです。改装には多額の費用がかかっているのに、報酬はゼロ。それをあたかも彼のせいであるかのように言う親戚に、唖然とするラースロー。

挙げ句の果てに、親戚から「妻に言い寄って俺を裏切った!」とあらぬ疑いをかけられ、完全な悪人扱いに。住む場所も仕事も失ったラースローは、ホームレース用の宿泊所に泊まり、肉体労働をして日々をしのぐしかありませんでした。

正気を保つために、薬物に依存するようになったラースロー。このときに染みついてしまった悪癖は、以後ずっとラースローを苦しめることになります。

そこへ現れたのが、ラースローの失業の原因となった例の依頼者の父親・ハリスンでした。激怒してラースローたちを追い出したものの、その後に改装された書斎が評判となり、ラースローの経歴を調べて会いにきたのです。

手のひらを返したように、ラースローを褒めそやすハリスン。

本来あの日に払うべきだった改修の報酬を渡して、今度自分の屋敷に来るようにと伝えます。

芸術の価値など分かっていないのに、知名度やブランド力があると分かると「投資チャンス」とばかりに囲い込みにくる。大富豪ハリスンは、まさに軽薄なアメリカの資本主義を象徴するかのようなキャラクターです。

その後ラースローは、ハリスンが一大事業として立ち上げた巨大なコミュニティセンターの設計を任されることになり、生活とキャリアは一転したかのように見えます。

しかし、それも大富豪ハリスンの気まぐれの上に成り立つ、不安定な仕事。

ヨーロッパで有名な建築家としてラースローを金持ち連中に紹介するハリスンの様子は、まるで自慢のペットを客に見せびらかしているかのようです。

ラースローはハリスンのコネを使って家族を呼び寄せることに成功し、念願だった愛する妻と姪との再会も果たします。しかし、離ればなれになっている間に姪は失語症となり、妻は車椅子に乗った不自由な姿に。そして妻と共にベッドに入ったことで、ラースロー自身が心身に受けた傷も改めて浮き彫りになります。

ラースロー家族がホロコーストで受けた傷はいまだ癒えず、その傷がアメリカ人たちから見た彼らのイメージを形づくっています。物言わぬ姪のゾーフィアは「無愛想」、車椅子のエルジェーベトは「可哀想な身障者」、そして心に負ったトラウマを必死に隠して心を閉ざすラースローは「変わり者」。

収容所を経験する前には、彼ら3人それぞれにまったく違った人生がありました。その中で立派な学歴、キャリア、人間関係を築いていたのがリセットされ、異国で上記のようなレッテルの中に押し込められてしまったのです。

そして、自分たちにそんなレッテルを貼り付けて喜んでいる人間たちの好意にすがって生きていかなくてはならない。その苦しみはどれほどのものでしょう。

ゾーフィアはその状況に耐えかねて、後に婚約者と共にイスラエルへと渡りました。その決断に反発していたエルジェーベトは、それでも自分の実力にはおよそ釣り合わない仕事をしていることに悩み、「口紅の記事を書くために大学で学んだわけじゃない」と嘆いています。

そしてラースローは…。彼は、断絶された人生、アメリカでの根無し草のような暮らし、未だ自分を苦しめる収容所の記憶に、ずっと沈黙のままで耐えています。彼のその苦しみを和らげてくれるのは、薬物。

そして、ハリスンに依頼されているコミュニティセンターの設計の仕事です。

その巨大な建造物の設計は、建築家であるラースローにとって自分のアイデンティティの拠り所となるべきものでした。

たとえそれが大富豪ハリスンの気まぐれな思いつきでも。

彼にとって異教である、キリスト教徒たちのための施設でも。

地元の人たちから「ユダヤ人に作らせるなんて」と白い目を向けられても。

ラースローはコミュニティセンターの仕事に異常なまでに固執し、自分が考えた設計に手を加えられると、激しい怒りを見せます。

ラースローがそれほどに感情的になる様子は、それまでのあらゆる苦しみにじっと静かに耐え忍んできた姿と対照的です。

しかし、それも無理のないこと。建築家のラースローにとって、建造物とは個の人生の苦しみよりも遙かに重要なものなのですから。

センターの設計を依頼される前、ラースローがハリスンに建築の仕事について語っていたシーンは、この映画全体を読み解く鍵となります。

建造物は時の流れや政治、社会の情勢に屈することなく、残り続けるものです。

その不変の姿が新しい時代の人々の感性をも刺激し、建築家の死後も社会に影響を与え続けます。ラースローにとって、たとえ今の自分がどれだけ傷つき、惨めで、卑しい存在のように感じられたとしても、設計した建造物に自分の存在を刻むことができれば、それですべてが救われるのです。

しかし、センター建造のプロジェクトは決して順調には進まず、事故で死傷者が出たことにより計画は中断。再び激高したハリスンによって、またもラースローは犬のように足蹴にされて追い出されることになります。

その後プロジェクトは再開しますが、今度は石材を調達しに行った先のイタリアで、何とラースローはハリスンから性的暴行を受けてしまったのです。

ハリスンはラースローに「お前が情けない人間だから、こんな目に遭うんだ」と侮蔑的な言葉を投げかけ、容赦なく彼の尊厳を傷つけます。

それでも、ラースローは再び沈黙を選びました。

人は普通、自分の経験やそこで感じたことを語るのに、言葉を使います。

イスラエルで人生を回復させたゾーフィアが、映画のラストで人々に向かってスピーチをしたように。エルジェーベトが客人たちの前で、ハリスンを糾弾したように。言葉は早く確実に伝えるのに有効な手段です。

けれど、ほとんどの言葉は発せられてすぐ、どこかへ流れて消えていきます。その瞬間、その場にいる人の心を動かしても、すぐに忘れ去られてしまうものなのです。

だからこそ、ラースローは言葉で語る道を選びません。

収容所でどんな悲惨な目に遭ったのか、ハリスンの身勝手で残酷な行為にどれほど傷つけられたか。彼は最後に妻エルジェーベトにだけハリスンからの暴行の件を打ち明けましたが、彼が事情を説明するシーンは描かれず、あくまでもラースローの「語らない姿勢」が強調されています。

とても言葉にできないほどの苦しみ。

言葉にすることで、実際よりも卑小なものとして扱われることも耐えがたい苦しみ。

解放されたいと切に願うと同時に、決して風化させたくないと感じる苦しみ。

芸術家であるラースローには、それを作品に昇華するという道がありました。

彼がハリスンからの依頼で作り上げたコミュニティセンターは、彼自身の苦しみの記念碑です。

映画のラスト、建築家ラースローを讃える回顧展で、姪のゾーフィアが驚くべき事実を明かします。実はヴァン・ピューレン・コミュニティセンターは、ナチスの強制収容所がモチーフとなっていたのです。彼に永遠のトラウマを植え付けた収容所を、なぜ苦労して再現したのか。

恐らくは、生き延びた人々が収容所の体験を語り継いでいくのと同じ理由でしょう。芸術家であるラースローは、それをより力強く、確実に残る作品に託すことができたのです。

映画のエピローグで、姪のゾーフィアがラースローに代わって彼の言葉を聴衆に伝えます。

「大事なのは旅の過程ではない。目的地だ」

彼にとっては、自らの体験や感情までも糧として作り上げた建造物こそが、その目的地にあたります。その過程にあった、貶められ、傷つけられ、蔑まれた過去は重要ではないのです。

これこそが芸術家のメンタリティ。圧倒的なアイデンティティの保ち方であり、同じユダヤ人でも、ゾーフィアやエルジェーベトには不可能な乗り越え方といえるでしょう。

以前、別の映画かドキュメンタリーで、収容所から生還したユダヤ人がこのように語る場面を見たのを覚えています。

「人々は私に、『収容所での経験から何か学びましたか?』と尋ねる。彼らはナチスの強制収容所をセミナーか何かと勘違いしているのだろうか」

収容所での経験は苦しみ以外の何ものでもなく、そこから何かを得るとか、そんな生易しいものじゃない、というのが大部分の生存者の実感でしょう。

けれど、ラースローはそこで目にしたもの、感じたものを表現しようと試みることで、ブルータリズム建築の真髄に迫ります。

あらゆる装飾を取り払った、むき出しのコンクリートの荒々しさと力強さ。

それらを通して感じられる、嘘偽りのない生の姿。確かに今ここに在るという、存在の手触り。

打ちのめされても沈黙を貫き、そのために自分の内面で、生きることの痛みと苦しみを凝縮させていったラースローの生き様が、そこにはありました。私たち観客は、彼の旅の過程を知っているからこそ、到達した目的地の高みに心が震えるのです。

この映画を観ていて思い出すのは、同じく芸術家の生き様を描いた「バベットの晩餐会」。

あちらは建築とは打って変わって美食の世界ですが、料理人バベットが見せる“芸術家としての選択”は、ラースロー同様、見る人に強い印象を残します。

どちらも、時代に翻弄されて苦しんでいるとき、こんな風に自分のアイデンティティを保てたら素晴らしいなと心から感動させてくれる名作です。物静かな雰囲気の映画ですが、興味をもたれたら是非併せて鑑賞してみてください!

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

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