ノイズを取り除いた、生の本質~「わたしを離さないで」ネタバレ感想~

近未来SF

カズオ・イシグロの原作、大好きです。

原作を読んでないと、映画だけで世界観掴むのがちょっと難しいんじゃないかと思いましたが、原作未読の方はどう感じたでしょう?

ただ雰囲気に関して言うと、カズオ・イシグロの小説を丁寧になぞるように、静かに抑制された作りになっていましたね。その分、ラストで込み上げてくる感情が、観る者の胸を深く刺します。

誰もが避けてとおれない「死」を、そして限りある「生」を見つめる物語。「わたしを離さないで」ネタバレ感想、いきます。

鑑賞のまえに

2010年製作/イギリス、アメリカ

時間:105分

監督:マーク・ロマネク

出演:キャリー・マリガン、キーラ・ナイトレイ、アンドリュー・ガーフィールド、他

・原作の雰囲気に比較的忠実なので、カズオ・イシグロファンも楽しめるはず

・ただ、原作を読んでいないと、映画だけでは設定が理解できないところも多そう…

・音楽がとても世界観に合っているところも、ぜひ注目してください

感想

いかにもイギリス的な、寄宿学校の風景。リーダー格の子がいて、不器用ないじめられっ子がいて、味方になってくれる心優しい子がいて。よくある子供時代の回想のように思われましたが、場面が進んでいくにつれて、不穏な違和感が否応なく浮かび上がってきます

子どもたちは残酷な噂話によって、学校の敷地の外に出るのは自殺行為だと刷り込まれています。それに外の世界からヘールシャムにやってくる大人たちの奇妙に強張った態度。明らかに中古のガラクタを寄せ集めただけの“販売会”のイベント。新任の教師はゴミ同然の人形に子どもたちが大喜びする様子を見て、怪訝そうな顔をしています。

実は、主人公が母校として懐かしんでいるヘールシャムは、臓器提供者(クローン人間)を成年まで保護・管理する国営の施設でした。ここで子ども達は教育を受けるものの、その力を生かして社会で活躍することは決してなく、大人になれば“普通の人間たち”に移植用として臓器を提供して、短い一生を終えることが決められています。

つまり、この世界では、臓器提供を受けて平均寿命が100歳を超える普通の人間と、臓器を提供することによって30歳前後で命を終えるクローン人間、対照的な2種類の人間が共存しているのです。

とはいえ、クローン人間たちと普通の人間との関わりは最小限に抑えられているため(普通の人間はクローンを怖がっている)、語り手のキャシーの関心のほとんどは、自分と同じクローン人間の仲間たちに向けられています。

原作の小説はその点がもっと顕著で、キャシーが語る普通の人間は、保護官や臓器提供プログラムで働く人のみ。それも自分たちクローンとの立場の違いを意識してというよりは、同級生も保護官も同じ「ヘールシャムの関係者」という括りで話しているような印象を受けます。

ここが、私にとっては原作の小説と映画の一番印象的な違いでした。映画では、ラストにキャシーの独白があり、自分たちと、自分たちが犠牲となって助けなくてはならない人間たちとの違いが分からないと漏らしています。誰もが生きる意味を理解しないまま命の短さを嘆く、と。

これは原作にはない言葉だったと思いますが、カズオ・イシグロが書こうとしたことの本質に迫っていて、私たちにこの物語をどう受け止めればいいかを丁寧に説明してくれているような気がしました。

イシグロはこの小説において、何らかの理由で短い一生を運命づけられている若者たちを書きたかったと語っていましたが、それによって私たちに「クローン人間って可哀そう」と思わせたかったわけではないでしょう。

キャシーやトミー、ルースは、実は私たちそのものです。いつかは必ず“終了”を迎えますし、そのときが近づいてくると「人生は短すぎる」と感じ、絶望するのも同じです。違いがあるとすれば、私たちの人生は、その恐怖を紛らわせるためのありとあらゆる誤魔化しに溢れていること。

お金を稼いで贅沢な暮らしをすること。子どもを作って自分の遺伝子を残すこと。偉大な仕事をして後世に自分の名前を残すこと。こういうことをしていれば、何となく「生きる意味がある」ような気がして、死の恐怖は紛れます。けれど、本当にそれが生の本質なのでしょうか?

これらの選択肢は、どれもキャシーたちが選ぶことのできないものです。生活費に困ることはありませんが、与えられるもの以上の贅沢は望めず、子どももできない体です。仕事といえば、自分たちと同じ立場の臓器提供者のお世話だけ。ほとんどの人間にとって過酷なだけでやりがいの無い仕事らしく、数年働くと「早く提供する側になりたい」と思わせるようなシステムになっています。

キャシーたちは誤魔化しが許されない人生を送っているからこそ、私たちよりも真剣に「死」と向き合わざるを得ません。提供は運が悪ければ1回、最大でも4回と、確実に自分の死の見通しを立てることができてしまいます。

それまでに、一体何をすればいいのか。どう生きればいいのか。私たちのように選択肢が多くないからこそ、彼らの生の本質は研ぎ澄まされていきます

この映画の中で重要な要素となる「誰かと心から愛し合っていれば、3年間の猶予が与えられて2人で暮らすことができる」という噂話は、そんな彼らだからこその、一つの哲学を表しているように思えました。

もちろん噂にすがる者たちにとっては「3年間生き延びられる」という点が重要なのですが、目の前の死が少し先送りになったところで、恐怖が完全に消えるわけではありません。彼らにも、私たちと同じような「これが生きる意味だ。これさえできれば命は無駄ではなかった」と思えるものが何か必要だということなのでしょう。

彼らにとってのそれは、誰かと愛し合うこと。他者と深い結びつきを持つことでした。「たった3年でも愛し合う誰かと過ごすことができれば、自分の人生にも意味があったと言える」。そんな彼らの考えが、この噂の原点だったと思えてなりません。彼らにはそれぐらいしかできることがないからこういう発想になったとも言えますが、私にはそれがあらゆる誤魔化しを取り払った後に残る、生の本質のような気がしました。

もちろん現実には愛し合うだけではなく、キャシーやルースのようにお互いを傷つけて、かえって遠ざけてしまうこともあります。ただ、それでもキャシーとルースの間には最後まで強い結びつきがありました。

それは恐らく、彼らが財産やキャリアや家族を持たず、お互い以上に大切なものが何もなかったからだと言えます。憎むときも愛し合うときも、ヘールシャムでの子ども時代を共有した仲間は、キャシーにとっていつもかけがえのない存在でした。

死が身近なものではなくなった現代。くだらない物事にしがみついて生きる私たちは、果たしてキャシーのように人との結びつきを強く感じることができているでしょうか?

また、「わたしを離さないで」の世界の中でも、キャシーやトミーやルース、ヘールシャムの出身者はかなり特異な存在だったという点も注意が必要です。

小説と違って、映画ではこのあたりの説明がほとんどなかったため分かりづらいのですが、ヘールシャムは未成年のクローン人間の施設としては、かなり実験的な場所でした。

ヘールシャムでは、まるで普通の人間の子どもと同じように教育を与え、感性を磨いて創作に打ち込むように奨励していました。何よりも「成長しても、臓器を提供して死ぬだけの運命」という事実を、子どもたちにできるだけ意識させないようにしていたのです。

何故そうしたかというと、施設の責任者であるエミリ先生が「臓器提供者といえども、人道的に扱われるべきだ」という理想に燃えていたため。他の施設でクローンの子どもたちが人間扱いされていない状況に胸を痛め、“生きている間は”人間らしい人生を送れるようにしてやるべきだと考えていたからです。

あくまでも、提供までの扱われ方の話です。理想主義者のエミリ先生も、決して「臓器提供プログラムなんて廃止すべき」とは言いません。(終盤には体の具合が悪そうなエミリ先生の姿がありますが、彼女も必要であれば臓器提供を受けるのだろうと、つい想像してしまいます)

提供も終了も、避けようのないこと。3年間の猶予もただの噂で、実際には普通の人間たちは検討すらしていませんでした。

そんな運命を背負って、それでも子供時代だけは与えられて、そこで普通の人間のように想像力や感受性を身につけてしまったキャシーたち。何も成し遂げられない。何も残せない。その前提のもとで、狂おしいほどに人との結びつきを求め続ける彼らの姿は、「限りある生を、本当はどう生きるべきか」、私たちに教えてくれている気がします。

作品は違いますが、カズオ・イシグロが脚本を手掛けた「LIVING~生きる~」の中でも、仕事の成果はいつか時間の流れの中で朽ち果てていくものだという話がありました。大きな仕事を成し遂げて、あるいは子どもを立派な人物に育て上げて、それで「満足した!」と思える人ももちろん多いと思いますが……

キャシーのように、人生の終わりになって、誰かと共有した時間を深い感情と共に思い出せることこそ、人間にとっての「生きる」ということなのだと思えてなりません。

カズオ・イシグロの他の小説「日の名残り」や「クララとお日さま」からも、これに似たメッセージを受け取ることができます。興味を持たれたら、ぜひ手にとってみてください!

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

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